神々の山嶺(集英社文庫)  

神々の山嶺 ( かみがみのいただき )   夢枕獏 / 1997年 / 集英社

● 夢枕獏  ( ゆめまくら・ばく )

1951年、神奈川県小田原市生まれ。東海大学文学部日本文学科卒業。
'77年「奇想天外」誌に『カエルの死』を書いてデビュー。
'84年『魔獣狩り』シリーズで若い読者の支持を受ける。
'89年『上弦の月を喰べる獅子』で日本SF大賞を、'98年『神々の山嶺』で柴田錬三郎賞をそれぞれ受賞。
著書は『幻獣変化』『闇狩り師』『鮎師』『鳥葬の山』『陰陽師』シリーズ、『餓狼伝』シリーズ、『涅槃の王』シリーズなど多数。

集英社文庫 『神々の山嶺』 と文春文庫 『鳥葬の山』 の著者紹介を参考にした。
WEB上に公式サイト、ファン・サイトが多数ある。
ご興味のある方は検索していただきたい。

● 魅力あふれる山岳小説

著者自身のあとがきによれば、この小説は、「話そのものを思いついたのが20年前」、「書き出してから足かけ4年」(1994年7月~1997年6月「小説すばる」連載)という力作。
原稿用紙にして1700枚。 堂々たる山岳小説である。

物語は、エヴェレスト登山隊に参加した日本人カメラマン深町誠が、隊の登頂失敗の後、カトマンドゥの街で偶然、一台の古いカメラを見つけたところから始まる。
そのカメラ〝BEST POCKET AUTOGRAPHIC KODAK SPECIAL〟が、1924年、エヴェレスト山頂を目指したまま帰らぬ人となったジョージ・マロリーが持って行ったカメラではないか、という〝謎解き〟が一つ。
そのカメラの出所を追ううちに深町が出会ったネパールに住む日本人が、伝説のクライマー〝羽生丈二〟ではないのか、というもう一つの〝謎解き〟がこれに重なって、意外な方向に進展する。

マロリーのカメラ、伝説のクライマー 羽生丈二、その謎を追う深町誠、羽生と関わりの深かった岸涼子、羽生と行動を共にする伝説的なシェルパ=アン・ツェリン、元グルカ兵のネパール人、羽生のライバルだったクライマー 長谷常雄(長谷川恒男がモデルらしい)、等々。
これらが複雑に絡みあって、舞台は、カトマンドゥから世界の最高峰エヴェレストの南西壁に移ってゆき、読み進むにつれてぐいぐい引き込まれてしまう。

今回、この文章を書くためにあらためて読み返してみたが(三度目)、あらすじがわかっていても、話の展開には、胸がわくわくする。
まだ行ったことのないカトマンドゥの街角やエヴェレストの壁面に、まるで自分がいるような臨場感。
何よりも、羽生丈二という、エヴェレストにとりつかれた荒削りな男に、強い共感をおぼえる。

「おい。おれがやろうとしていることが何だろうと、それは、あんたには関係がないことなんだ。少しもね。人がやろうとしていることに横から関わるな。いいかい、あんた。てめえは、てめえのことをやってりゃあ、他人のことなんかに関われねえんだぜ・・・」
   ― 『 神々の山嶺 』 十二章 山岳鬼 ―

「そこに山があるからじゃない。ここに、おれがいるからだ。ここにおれがいるから、山に登るんだよ」
「あんた、どうだ。山に、なんかいいもんでも落ちてると思ったか。自分の生き甲斐だとか、女だとか、そういうもんが山に落っこちてると思ったか」
   ― 『 神々の山嶺 』 十六章 山の狼 ―

こういう台詞を吐く男が羽生である。
物語の語り手である深町誠は、この強烈な個性を持つ男を追って、悩みながら変わっていく。
その二人に関わりあっていく岸涼子という女性も魅力的である。

もしも、これから読んでみようという方には、単行本よりも文庫版をおすすめする。
理由はあとで書くが、単行本刊行(1997年)の後1999年5月1日に、エヴェレストの北面、標高8250m付近でマロリーの遺体が発見されるという、センセーショナルな事件があったのだ(文庫版の発行は2000年)。

この小説にはミステリー的な要素もあり、これ以上、内容を具体的に書いてしまうと、まだ読んでいない人の楽しみを奪うことにもなりかねないので、ここでは物語の背景を紹介してみたい。


● ヒマラヤの〝ジャイアンツ〟

世界には標高8000メートルを超える山が14座ある。
それらの山は、すべて「ヒマラヤ」と総称される地域(中央アジアのパキスタン、インド、ネパール、チベットにまたがる東西1600kmの広大な山域)にある。
その中で、1852年になって初めて世界最高峰であるとわかったのがエヴェレスト(8848m)である。
それまで「ピーク15」としか呼ばれていなかった、ネパールとチベットの国境にあったこの高峰は、当時のインド測量局長官であったジョージ・エヴェレスト卿を讃えて〝Mt. Everest〟と名付けられたが、本来は、ネパール語で「サガルマータ」(大空の頭)、チベット側で「チョモランマ」(チョモルンマ、チョムランム=大地の女神)と呼ばれていた。 当のエヴェレスト卿は、自分の名が山名に冠せられることを嫌っていたという。

 → 世界遺産巡り  http://www.hukumusume.com/366/world/isan/  → アジア大陸の世界遺産
 → サガルマータ国立公園

ところで、ヒマラヤの高峰群が本格的な登山の対象として考えられ始めたのは、19世紀も末、1885年頃と言われている(深田久弥『ヒマラヤ登攀史』)。
6000メートル峰、7000メートル峰は、いくつか登頂されたものの、「ジャイアンツ」と呼ばれる8000メートル峰の登頂に成功したのは、第二次世界大戦後の1950年フランス隊によるアンナプルナ(8091m)が最初である。
14座の初登頂記録は下記の通り(登頂日順)。

  1   アンナプルナ 8091m 1950/6/3 フランス隊
  2   エヴェレスト 8848m 1953/5/29 イギリス隊
  3   ナンガ・パルバット 8125m 1953/7/3 ドイツ・オーストリア隊
  4   K2 (チョゴリ) 8611m 1954/7/31 イタリア隊
  5   チョ・オユー 8201m 1954/10/19 オーストリア隊
  6   マカルー 8463m 1955/5/15 フランス隊
  7   カンチェンジュンガ 8586m 1955/5/25 イギリス隊
  8   マナスル 8163m 1956/5/9 日本隊
  9   ローツェ 8516m 1956/5/18 スイス隊
  10   ガッシャーブルム II 8035m 1956/7/7 オーストリア隊
  11   ブロード・ピーク 8047m 1957/6/9 オーストリア隊
  12   ヒドゥン・ピーク (ガッシャーブルム I) 8068m 1958/7/5 アメリカ隊
  13   ダウラギリ 8167m 1960/5/13 スイス隊
  14   ゴザインタン (シシャパンマ) 8012m 1964/5/2 中国隊

下記サイト情報を参考にした。 ただし、山名は深田久弥氏の『ヒマラヤ登攀史』によった。
標高は資料によって差異があるため『理科年表』(2005年版)によったが、今後も確認を続けたい。
K2の初登頂はイタリア隊である(下記サイトの記載は誤り―2005/1/30現在)。
  → ネパールデータ  http://itotai.cool.ne.jp/nepaldeta.html


● マロリーとアーヴィン

エヴェレストは、1921年の第一次遠征隊(調査隊)、22年の第二次遠征隊、24年の第三次遠征隊と、英国隊によって三度にわたって登頂が試みられたが、いずれも失敗している。
三度とも、北面(チベット側)のロンブク氷河から〝ノース・コル〟を経て北稜~北東稜のルートを辿る試み。
それから30年後の1953年、ヒラリーとテンジンによって初登頂されたときの南東稜ルートは、この当時はまだ登頂不可能とみなされていたのである。

ジョージ・マロリー(George Leigh Mallory, 1886-1924)は、1921~24年の遠征隊に主要メンバーとして参加。
二度の遠征での登頂失敗に続く三度目の遠征で、1924年6月8日の朝、最終キャンプ(標高約8200m)から当時若干22歳のアンドルー・アーヴィン(Andrew Comyn Irvine, 1902-1924)と二人で頂上を目指し出発した。
酸素ボンベの他には、わずかな装備しか持っていなかった。
マロリーが、パートナーとして若く経験も浅いアーヴィンを選んだのは、アーヴィンが酸素器具の扱いを得意としていたからだった。
二人の頂上アタック隊を最後までサポートしたノエル・オデール(Noel Ewart Odell, 1889-1987)が最終(第6)キャンプへ物資補給のために登っている途中、霧の晴れ間からちらりと、稜線近くを歩く二人を目撃している。 それが、二人の最後の姿だった・・・。


● それがそこにあるから  ― "Because it is there" (G . L . Mallory) ―

マロリーが、ニューヨーク・タイムズ社の記者から何度も受けた質問 ―― 「なぜエヴェレストに登りたいか?」
これ対して短く、「それ(エヴェレスト)がそこにあるからさ」 と答えたというエピソードは有名。
この言葉がのちに曲解され、「人はなぜ山に登るのか? ―― 山がそこにあるから」 と広められた。

1923年3月18日のニューヨーク・タイムズ紙に載った「エヴェレスト登頂――スーパーマンのための仕事」と題された無署名記事にマロリーの言葉が引用されている ―― 「彼は1924年に再び出かける予定だ。
再度登頂を試みる理由を尋ねたところ、彼は簡潔にこう答えた ―― そこにエヴェレストがあるからだ」
  ― メスナー 『 マロリーは二度死んだ 』 (2000年・山と渓谷社) P.226 ―

この〝マロリーの言葉〟は、新聞記者が勝手にこしらえたという説もある。
たとえ彼の言葉だったとしても、それは記者のしつこい質問に対して皮肉をこめて言ったのではないだろうか。
マロリーの本意はまったく別のところにあったのだ。
彼が別の機会に語ったという次の言葉が、それをあらわしていると思う。

クライミングに何か「効用」があるか、世界最高峰の登攀を試みることに何か「効用」があるか、と誰かに訊かれたら、私としては「皆無」と答えざるをえないだろう。
科学目的に対する寄与など、まるでない。 ただ単に、達成衝動を満足させたいだけであり、この先に何があるか目で確かめたいという、抑えきれない欲望が、人の心のなかには脈打っている。
地球の両極が征服された今、ヒマラヤのその強力な峰は、探検者に残された最大の征服目標である。
  ― 『 そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記 』 (1999年・文藝春秋) P.390 ―


● 〝マロリーのカメラ〟の謎

マロリーは最後の頂上アタックの日、登山隊のハワード・サマヴィルから借り受けた一台のポケットカメラを 持って出発した。 コダック社の蛇腹式折り畳みカメラである。
〝BEST POCKET AUTOGRAPHIC KODAK SPECIAL〟というこのカメラと同型のものの写真をぼくも見たが、 カメラ好きの人に(ぼくもそうだが)一度は手にしてみたいと思わせる逸品である。
マロリーとアーヴィンの二人はそのまま帰って来なかった。

だが、このカメラさえ見つかれば、二人(あるいはどちらか一人)がエヴェレスト山頂に到達していたかもしれない、というエヴェレスト登山史の謎が解明されるのである。
何故なら、標高8000mの気候は、カメラの中のフィルムに写っている画像を、変質させずに保持できるはずだから、フィルムを現像すれば彼らの登頂(あるいは登頂失敗)が証明できるのだ。
このカメラは未だに発見されていない。
彼らの遺品として、1933年の英国隊が発見した一本のピッケル(アイス・アックス)がある。
これはアーヴィンが使っていたものであることがわかっている。
標高8000m付近、稜線の岩の上に無造作に置かれていた。
それ以外に、彼らの足跡を偲ばせる遺品は発見されていなかった。 すくなくとも1999年5月までは。

1999年春、ドイツ人の登山史家 ヨッヘン・ヘムレブの発案で組織された「マロリー/アーヴィン調査遠征隊」という大規模な国際隊がエヴェレストの北東稜を本格的に捜索し、なんとマロリーの遺体を発見した。
着衣に印された名前と所持品から、間違いなく75年前に遭難死したマロリーの遺体だと判明。
このニュースは、あっという間に世界中に広まり、センセーションを巻き起こした。
大理石のように白く変質した遺体はその場に丁寧に埋葬され、多数の遺品が持ち帰られた。
―― 針の取れた高度計と腕時計、ゴーグル、ポケットナイフ、予備手袋、クライミング・ロープの切れ端、マッチ箱、缶詰の固形肉、ハンカチーフ、メモ書きや手紙、等々。
その中に、カメラは・・・なかった。

夢枕獏は、ちょうどこの調査遠征隊が捜索していた時期、小説の漫画化(漫画家 谷口ジローによる)の取材のためカトマンドゥに滞在していたという。 『神々の山嶺』の「文庫版・あとがき」に、彼はこう書いている。

帰ってから、マロリーの屍体発見のニュースを知ったのである。
ぼくは驚き、この発見の前に、本書を書きあげておいてよかったなと、ほっとしたりもしたのである。
しかし、そのため、必要最小限に、ラスト・シーンを書きなおすこととなった。 (中略)
マロリーの屍体は発見されたが、カメラはみつかってはいない。 (中略)
おそらく、この謎は永遠に残ることになるだろう。
その方が、ヒマラヤ登山史は豊穣であろう。

まったくその通りだと思う。 マロリーとアーヴィンは、ぼくらの心の中で生き続ける。


《 参考書籍 》

 『そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』  文藝春秋 1999.12.10
   原題 〝Ghost of Everest〟
   ヨッヘン・ヘムレブ/ラリー・A・ジョンソン/エリック・R・サイモンスン
   ウィリアム・ノースダーフ [構成・文] 海津正彦・高津幸枝 [訳]
     マロリーの遺体写真が掲載されているが、痛々しい。
     捜索隊結成から発見までの経緯が詳しく記載されていて、資料としての価値あり。
     写真多数。 マロリーの長女が序文を寄せている。


 『マロリーは二度死んだ』  山と渓谷社 2000.8.20
   ラインホルト・メスナー   黒沢孝夫 [訳]
     有名な登山家・冒険家のメスナーが、上記の捜索隊を批判する視点からマロリーの謎に迫った書。
     マロリーたちが〝第2ステップ〟の切り立った岸壁を登り切ることは、当時の装備・道具では不可能、
     という説を綿密に説明しているが、ぼくも同意したい。 メスナーの人柄が表れている好著。
     巻末の訳註が詳細で、これだけでも資料として役立つ。


 『エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリー伝』  中央公論社 1988.5.25
   原題 〝The Mistery of Mallory and Irvine〟
   トム・ホルツェル/オードリー・サルケルド   田中昌太郎 [訳]
     マロリーの生涯を、当時のイギリス登山界の事情を背景に丹念にたどった書。
     マロリーとアーヴィンの登頂の謎についても、独自の説を展開している。


 『チョモランマ単独行』  山と渓谷社 1985.4.10
   原題 〝ガラスの地平線 ―― チベットを通ってマウント・エヴェレストへ〟
   ラインホルト・メスナー   横川文雄 [訳]
     1980年、前人未到のエヴェレスト単独・無酸素登頂を成し遂げたメスナーの手記。
     自身の登頂記録だけでなく、これまでエヴェレストに単身で挑んだ人たちについても思いを馳せている。
     なかでも、1934年、軽飛行機でエヴェレスト中腹に降りて山頂を目指す、というとんでもないプランを
     実行に移そうとした〝奇人〟モーリス・ウィルソンのエピソードは興味深い。
     (軽飛行機による〝登山〟を阻止されたウィルソンは、徒歩でチベットに潜入し、最後はノース・コルの
     手前で精魂尽きて疲労死した。)
     メスナーは、モンスーン期に北側(チベット側)からノース・コルを経由してエヴェレスト山頂に
     挑んだ。
     長い準備期間の後、たった一人で酸素ボンベの助けも借りず極限状況の単独行の末、頂上に達した。
     この苦しい単独行の中で、彼はマロリーとアーヴィンに何度も思いを馳せている。
     巻末に「エヴェレスト編年誌」という貴重な資料あり。

( 2005/1/30 - 2/9, 2/14, 2/18, 2/23, 2/24 )

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