資料蔵

アイヌ資料 5

 

<< 初回掲載日 2005/4/23 / 最終更新日 2007/7/28 >>

 
    アイヌ資料 目次へ  
    アイヌの四季 (計良智子) アイヌ民族を生きる (野村義一)
    ◇ 街道をゆく 38 オホーツク街道 (司馬遼太郎) ◇ 先住民族アイヌの現在 (本田勝一)
    ◇ アイヌ植物誌 (福岡イト子) ◇ 日本語とアイヌ語 (片山龍峯)  
    アイヌ語をフィールドワークする (中川裕) アイヌの物語世界 (中川裕)
    ◇ アイヌ文様刺繍のこころ (チカップ美恵子) ◇ アイヌ・モシリの風 (チカップ美恵子)
    ◇ 日本奥地紀行 (イザベラ・バード)  
    ◇ イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (宮本常一)  
 

● もっと広く、もっと深く理解するために

これまでに読んだ本の中でもとくに印象に残ったものを紹介する。

 
計良 智子 『アイヌの四季』

計良 智子
『アイヌの四季
 ― フチの伝えるこころ』
明石書店 1995

計良 智子 (けいら・ともこ)
1947年 胆振管内白老町生まれ。 現在(1995年時点)「ヤイユーカラの森」運営委員。
「ヤイユーカラ・アイヌ民族学会」創設メンバー、後、事務局長も務める。
札幌市ウタリ職業相談員、同生活相談員、ウタリ協会理事などを歴任。
1994年 「日本民藝館展」にチタラベ(花ござ)入選。
<著書等> 『近代化の中のアイヌ差別の構造』 共同編集(明石書店)
 『ともに だれと ・・・・・・』 下巻 アイヌ民族(カトリック中央協議会)
    《 『アイヌの四季』 明石書店/1995・第1刷 著者略歴を引用 》
著者の計良智子については、やはり北川大の『アイヌが生きる河』に書かれていたので知っていた。 北川大が、貝澤正の半生を追って60年代後半から70年代初頭にかけての「北海道ウタリ協会」の活動を調べていたとき、郷内満という人から計良智子を紹介されている(北川大『アイヌが生きる河』樹花社 「第六章 アイヌを生きる」)。
計良智子自身が書いているところによると、彼女は「アイヌがアイヌであろうとすることがとても難しい時期に」娘時代を過ごしたという。
彼女の父方の祖母がアイヌで、祖父は本州からの稼ぎ人。 母方の祖父母は和人だったが、祖父は幼い時にアイヌの家庭にもらわれて育ち、終生アイヌプリ(アイヌの風習)を守って暮らした人だという。

(前略)― 私の中に流れるアイヌの血は、この祖母からきたものです。 ―(中略)―
父と母が生まれ育った大正末期から昭和初期は、幕末以来の同化政策の総仕上げともいうべき時期で、全道的に「アイヌの時代は終わったのだから、一日も早く立派なシャモ(和人)になり切れ」と子供たちを育てた時代でした。 とくに白老地方はそれが強かったようで、父や母がアイヌ語やアイヌの生活習慣を知らずに成長したのは当然だったのです。 その娘である私が、たとえ何分の一かの血を受け継いでいたからといって、アイヌとしての自分を考えるようになるまでには長い時間が必要でした。
 ( 『アイヌの四季』 明石書店/1995年/第1刷 はじめに P.3 )

この本は、そんな著者が白老の観光地ポロトコタンで働きながら出会った、アイヌのフチ(アイヌ語でおばあさん)、其浦(そのうら)ハル・フチと織田(おりた)ステノ・フチから学んだ〝アイヌの知恵〟ともいうべき伝統文化(料理法を中心に、糸より、編み仕事などの女性の文化)を綴ったものである。

北海道新聞に、1993年2月から12月まで季節ごとに短期連載(44回)されたものを集めている。 鍛冶明香(かじ・さやか)という北海道出身の切り絵作家・漫画家による切り絵が多数添えられていて、とてもやさしく読みやすい本。
四季おりおりの、海の幸・川の幸・山の幸(山野草)を使ったアイヌの伝統的な料理法が、ていねいに、愛情をこめて紹介されている。
著者が伝えたかったのは「フチのこころ」だという。
かつて著者の家を訪ねたフィリピンの女性活動家がこう言ったそうだ。
―― 「あなたの最良の先生は、同族のお婆ちゃんたちです」
野村 義一 『アイヌ民族を生きる』

野村 義一
『アイヌ民族を生きる』
草風館 1996



竹内 渉 編著 『野村義一と北海道ウタリ協会』

竹内 渉 編著
『野村義一と
 北海道ウタリ協会』
草風館 2004

野村 義一 (のむら・ぎいち)
1914(大正3)年 白老村生まれ。
1964(昭和39)年から32年間、社団法人北海道ウタリ協会の理事長を勤め、「北海道旧土人保護法」の改廃と「アイヌ新法」制定のために力を尽くした。
'92(平成4)年、国連総会「世界の先住民の国際年」開幕式典で先住民族の代表の一人として演説。 その内容がこの本に収録されている。
'94年、北海道開発功労賞(北海道知事賞)受賞。
    《 『アイヌ民族を生きる』 草風館/1996 所収の藤本英夫による「野村義一伝」を参考にした 》

 → 社団法人 北海道ウタリ協会  http://www.ainu-assn.or.jp/

《注記》 アイヌ新法・・・「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(略称:アイヌ文化振興法)は、この本の出版後の1997(平成9)年に公布され、同時に「北海道旧土人保護法」が、じつに公布から98年後に廃止された。


野村義一という人の半生を、この本に収められている藤本英夫による「野村義一伝」から紹介する。 まさに〝波乱万丈〟の半生である。

野村家は白老村のコタンコルクル(村の〝首長〟)の出。 母のミツは野村家の娘。
ものごころついた頃から父親がいなくて、祖母と母、妹の四人暮らしだった。
1922(大正11)年、白老第二尋常小学校に入学。ここは、アイヌの子どもたちだけが入る、いわゆる「旧土人学校」。
1928(昭和3)年、白老第一尋常高等小学校高等科一年に入学。
アイヌだけの第二小学校から転入したのは、40人のクラス中、彼を含めて6人。
彼の成績はずば抜けてよく、級長をつとめ、卒業式には総代。
卒業のとき、学費のかからない師範学校への進学をすすめられたが、家計を助けるために進学をあきらめ、母校の給仕の仕事につく。

給仕の仕事は、徴兵で入営するまで続けたが、その間、この学校に勤めていた若い先生から強い影響を受け、「高文」(高等文官試験)の司法科を受験して法曹界に進みたいと思うようになる。
そのために、まず「専検」(専門学校入学検定試験)を受け、10科目中7科目に合格したところで徴兵検査となる。
この「専検」試験を受けに札幌に行ったとき、バチェラー学園に泊まり、たまたまその夜、同宿した知里真志保に会っている。

1935(昭和10)年、月寒(つきさっぷ)の第七師団歩兵第二五連隊に入隊。
初年兵の教育期間を過ぎて休日に札幌市街に出かけるようになった頃、彼の目は法曹界から実業界に向けられ、古本屋で株式や不動産の本を買い漁るようになる。

'36年6月、伍長勤務上等兵という階級で除隊。
帰郷して白老漁業会に就職したが、翌 '37年の日中戦争開戦から2年後の '39年に召集を受け、再び入隊。
'40年8月、軍曹で除隊。 漁業会に復職して3年後の '43年にまた召集。
ミッドウェー海戦の敗北('42年6月)、ガダルカナル島の攻防戦と敗退('43年2月)、という、日本軍の敗色が濃くなり始めた時期である。
彼は、アリューシャン列島のアッツ島奪回作戦に動員されるかと思ったが、行き先は樺太。
樺太では、1945年8月9日のソ連軍参戦後、その攻撃にさらされ、降伏命令が出たのは天皇による終戦の詔書(いわゆる玉音放送)から5日後の8月20日のことだった。

'48(昭和23)年10月、帰国。 '49年、白老漁業協同組合専務理事に就任。
'55年、白老町議会議員。
'60年、(社)北海道アイヌ協会常務理事兼書記長に就任。
'65年、(社)北海道ウタリ協会( '61年、北海道アイヌ協会から改称)の理事長に就任。
'73年、24年間勤めた白老漁業協同組合専務理事を退職、'83年には、7期28年連続して勤めた町議会議員職も退いて、ウタリ協会の運動に専心。
ウタリ協会では、1899(明治32)年の公布以来、戦後まで長く残っていた「北海道旧土人保護法」の改廃運動に取り組み、いわゆる「アイヌ新法」を実現した。
この本は、「アイヌ新法」制定のために野村義一が各地で精力的に行なってきた講演をまとめ、インタビューにより肉付けしたものである。 その内容を目次から紹介する。
 ・明治以前―アイヌモシリで
 ・明治以降―過酷な試練の時代
 ・北海道旧土人保護法
 ・アイヌ新法制定要求の動機と根拠
 ・アイヌ新法の骨子
 ・世界の流れ
 ・一人一人が変わること
他に、二つの対談
 ・「白老にて」 野村義一+貝澤正  1986/12 白老の旅館「みやかわ」での対談
 ・「アイヌの心と新法制定の願い」 野村義一+上杉佐一郎  『部落解放』1987/1月号
さらに、藤本英夫による「野村義一伝」、巻末に「資料」として次の内容が収録されている。
 ・アイヌ民族に関する法律(案)  ('84/5/27 北海道ウタリ協会総会で可決)
 ・北海道ウタリ問題懇話会答申  ('88/3)
 ・ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会報告書  ('96/4/1)
 ・北海道旧土人保護法  (明治32年公布、大正8年改正)
 ・中曽根首相問題発言(部分)  ('86/9/27付朝日新聞掲載)
 ・国連総会「世界の先住民の国際年」記念演説  ('92/12/10)
 ・ウタリ生活実態調査(平成5年度)より
 ・関係史年表

アイヌ民族の歴史と現状が野村義一によってわかり易く解説され、さらに、貝澤正(ウタリ協会副理事長)と共に「アイヌ新法」の実現に力を尽くした、この頼もしい〝エカシ〟(長老)の情熱が込められている。

古くからアイヌの世界には、リーダーの資質としての条件があるという。
その〝条件〟とは、萱野茂もその著作に何度か書いていることだが、
  「シレト=器量」 「パウェト=雄弁」 「ラメト=度胸」
の三つだという。 野村義一は、まさに、これらを兼ね備えた人と言われる。

本多勝一著『先住民族アイヌの現在』(朝日文庫/1993/第1刷)にも、野村義一に関する記述があり、次のように書かれている。
  ( P.101~ アイヌ民族復権の戦い――野村義一氏の場合 )

コタンコロクル(首長)の資格としては、つぎの四つがそろっていることがアイヌ社会での伝統であった。
 男っぷりがいいこと。
 外交手腕があること。
 弁論の才があること。
 包容力に優れること。
北海道ウタリ協会理事長として野村義一氏が活躍する様子は、あたかも現代のコタンコロクルをおもわせるところがあるが、あるいはこれは野村エカシトクの後裔の一人であることも一因であろうか。

本多勝一によると、野村エカシトクは野村義一の祖母の兄にあたり、アイヌ伝統社会での本当の意味での最後のコタンコロクルだったという。
この他、野村義一について書かれた本として
  竹内渉(たけうち・わたる) 編著 『野村義一と北海道ウタリ協会』 (草風館/2004)
があり、こちらも興味深い内容。
思いがけず長くなったが、最後に、この本から胸のすくような一節を引用する。

1869年(明治2)このアイヌモシリが突然「北海道」と命名されました。 ―(中略)―
名前を変えるということはそれなりの理由があるわけでしょう。 その理由を明治政府は我々に示さないで、一方的にアイヌモシリというものを消して北海道と命名したんです。 まあ、聞いている皆さんはどう思っているかわからないけれど、私ども北海道のアイヌにとっては、今でもそれが不思議です。
どうして、アイヌモシリを北海道と名前を変えたのか、日本の学者も政治家も、皆そのことにはぜんぜん触れようとしないんです。 我々、当事者であるアイヌがわからないんだから、一般の国民が無関心でいるのは当然かもわかりませんね。 日本の国民でそれを不思議と思っている人がいますか? 誰もいないですよ。 ―(中略)―
江戸幕府に貸した覚えはない。 売った覚えもない。 戦って負けた覚えもない。
どうしてアイヌモシリは日本の領土になったんだい。 ロシアと勝手に取引したり、北海道と名前を変えることができるようになったんだい。
  ( 『アイヌ民族を生きる』 P.25~ 明治以降―過酷な試練の時代 北海道の命名 )

中川 裕 『アイヌ語をフィールドワークする』

中川 裕
『アイヌ語を
 フィールドワークする』
大修館書店 1995

中川 裕 (なかがわ・ひろし)
1955年 横浜市生まれ。
1978年、東京大学文学部言語学科卒業。 東大言語学研究室助手を経て、現在千葉大学文学部助教授。 専門はアイヌ語学、アイヌ文学、口承文芸学。
1976年から北海道をフィールドとしてアイヌ文学の記録活動を始める。
千葉大学でアイヌ語・アイヌ文学の講義をするかたわら、「銀の滴講読会」「パルンペ」「関東ウタリ会 母と子のアイヌ語教室」などのアイヌ語の学習サークル活動を行なう。
<著書> 『アイヌ語千歳方言辞典』(草風館/1995)
 共著『アイヌ文化の基礎知識』(アイヌ民族博物館/1987、草風館/1993)
 『ガイドブック世界の民話(講談社/1988)』
 『多元的世界に生きる(現代企画室/1991)』
 『ガイドブック日本の民話』(講談社/1991)
 『アイヌの物語世界』(平凡社ライブラリー/1997) など。
  《 『アイヌ語をフィールドワークする』 大修館書店、『アイヌの物語世界』 平凡社/1997 を参照した 》
ぼくは〝学者〟という人種を〝無条件〟には信用できないのだが、この人の『アイヌの物語世界』を読んで、信頼できる学者だと思った。
『アイヌ語をフィールドワークする』を図書館でみつけて読んでみようと思ったのは、そういう理由からだ。 題名が堅苦しい内容を思わせるが、とても面白い本であり、随所に著者の誠実さを感じる。

この手の本を読んでいて興味深い箇所があると、ぼくは付箋を付けていくのだが、この本は付箋だらけになってしまい、どうしても手元に置いておきたくなったので、とうとう古本をネット販売で入手してしまった。 出版社では品切れだったのだ。
〝帯〟の文句が内容をうまく表現しているので、そのまま引用する。

アイヌ語は滅びゆく言語ではない。 「調査」のために古老たちの中に入っていった学者の卵が、〝大事なこと〟を伝え残そうとするアイヌの人々の想いにふれたとき、言語学者としての道が決まった。 様々な出会い、優れた文化への驚き、辞書作り・・・エピソードを織りまぜてかたるアイヌ語とアイヌ文化の入門書。

著者は、1976年夏、東大言語学科3年生のときに、早稲田大学の田村すず子氏が率いるアイヌ語合宿に参加。 北海道の平取町を訪れ、そこで初めて肉声によるアイヌ語に触れた。 その授業をとったのは、とりたててアイヌ語に興味があったからではなく、「他の人のやっていない珍しそうな言語だったから」だという。
アイヌ語は、話者が限られているため、どうしても現地でのフィールドワークが重要になる。
学生だった彼は、そのフィールドワークの面白さに引き込まれていったようである。
この本には、アイヌの人々の中に入って行き、時には拒絶されながら、しだいに信頼を勝ち得ていった体験の数々が綴られていて、とても興味深い。
著者が出会い、アイヌ語を教わったアイヌの古老たちは、その後の歳月の中で何人も亡くなっている。 著者は「あとがき」に次のように書いている。

(前略) アイヌ関係においては、プライバシーや肖像権といった問題に無神経な研究者や、映像などの記録者、マスコミが、これまでに様々なトラブルを起こしているので、その轍を踏まぬようにということにも苦心した。 ―(中略)―
・・・私は、単に珍しい話、面白おかしい話で読み手を楽しませようとして、私の出会った人たちのことを書いたわけではない。 すべてのエピソードについて、世話になった人たちの顔を思い起しながら、その人たちへの敬意、なつかしさ、自分に対してそそいでくれた好意への嬉しさをどういうふうに書き表そうかと苦心し、その人たちの精神のあり方を伝えようとして推敲を重ねたつもりである。 煎じ詰めればそれがこの本を書いた目的ということかもしれない。  ( 『アイヌ語をフィールドワークする』 あとがき P.250 )

感動的なエピソードがたくさん書かれている。
アイヌ語を教わりに行って、はじめのうちはなかなか打ち解けてくれなかったフチ(おばあさん)が、帰りぎわになって突然ユカを語り始め、別れぎわには、手をとって「今日はあんたが来てくれて本当によかった」と言ってくれたこと。  (日川はるさんのこと P.16)

あるいは、謝礼のお金(これについても、著者はずいぶん悩んだ末に、自分の考え方を持つようになったという)を渡そうとした時の、次の話。

帰り際、私はよねさんに謝礼のお金を渡そうとした。 よねさんは「そんなつもりで相手したんじゃない」と固辞したが、わずかな額でほんの気持なのだから収めてくれと懇願すると、気持ちよく受け取ってくれた。 その頃私はまだ学生で本当に金がなかったから、中には千円札が三枚入っているきりだった。 よねさんは封筒からその札をとりだすと一枚一枚右手に持って、左の肩口からうなじを通して右の肩口へと、お札でなで上げた。 何をやっているのかは即座に了解できた。 うなじのあたりにいるという自分のトゥレンカムイ turen kamuy 「憑き神」に、そのお札を見せているのだ。 その仕草をしたのは後にも先にもそのときだけだが、私にはよねさんが心の底からそのお金を感謝して受け取ってくれたことが感じられた。 そして、よねさんが伝統的精神文化の体現者であることを、そのときあらためて深く感じたのであった。  (信頼関係の重要性 P.179~180)

ぼくには上手に要約できる技量がないため、そのままの長い引用となったが、いい話だ。
このような心暖まるエピソードをまじえながら、アイヌ語の現状と将来について語っている250ページほどの小冊子だが、すばらしい本に出会ったと思う。
言語学は「実学」であり、「醤油の味の向上」を追及すること以上に一般社会に利益をもたらすことが可能だし、その義務もある、と言う著者は、間違いなく「頼りになる学者」である。
中川 裕 『アイヌの物語世界』

中川 裕
『アイヌの物語世界』
平凡社ライブラリー
 1997/2001初版第2刷

中川 裕 (なかがわ・ひろし)
著者略歴は、上記の『アイヌ語をフィールドワークする』を参照いただきたい。
平凡社ライブラリー(文庫)書き下ろし。 全五章、300ページ足らずの読みやすい本である。
「カムイの世界」「人間の世界」「超人の世界」と題する三つの章に分けて、神謡(カムイユカ)、散文説話(ウエペケ、トゥイタ)、英雄叙事詩(ユカ)について解説。
また、「アイヌ文学の特質」「アイヌ文学の歴史と現在」の二つの章で、アイヌ言語学者としての持論を興味深く展開している。
これまでに読んだ同類の本の中では、群を抜いて読みやすく、面白い。

「はじめに」と題された序章から、著者のアイヌ語、アイヌの精神世界に対する深い理解がうかがわれる。 この本の冒頭の文章。

きみフチは大きなソファーにふかぶかと背中をもたせかけると、手を膝の上に組み、目を閉じて語り始めた。 その唇からはとうとうとアイヌ語があふれ出した。 (略) その間だけは、(略)かつて、きみフチや彼女の先祖たちが、カムイ「神々」に囲まれ、カムイと語り合って暮したあの世界を、私も彼女に導かれて逍遙するのであった。  (「はじめに」より)

〝きみフチ〟とは、著者が1976年の夏、大学3年生の時から、12年間通い続けてその言葉を記録し続けた、沙流川のほとり、ペナコリ集落に住んでいた木村きみさん。
〝フチ〟は、アイヌ語で「おばあさん」を意味し、敬愛をこめた言葉だという。

著者は、「初めのうちはアイヌ語を覚えるため――というより、アイヌ語で論文を書くということのため」に、きみフチの家に通っていた。 アイヌ語が日常的に使われなくなったため、自然な会話の資料を集めるのが難しいので、「アイヌ語のデータを集める次善の策として」アイヌ語で語られた物語を記録していた。
アイヌ語の研究者が、皆、やっている方法である。
他の研究者・学者たちと少しだけ違っていたのは――

そこで吹き込んでもらったテープを家に持ち帰り、それを聞き起こし、再びきみフチの家に行って不明な部分の意味を教えてもらうということを続けているうちに、私は次第にそこで語られている世界の方に魅かれるようになっていった。  (「はじめに」より)

という点にあるようだ。
言ってみれば、「アイヌの物語世界」にはまってしまったのである。
この本には、著者のそういう情熱が込められていて、それが大きな魅力といえる。

もちろん、『アイヌ語千歳方言辞典』(1995/草風館)という立派なアイヌ語辞典を書いた学者であるから、アイヌの物語世界(口承文芸)について、じつに興味深く、勉強になる分析を繰り広げている。

たとえば、長大な英雄叙事詩がどうやって伝承され続けてきたのか。 そのメカニズムについて述べた次の箇所などは、思わずひざを打ったのだった。

英雄叙事詩というのはとにかく「長い」ということで知られている。 一篇を語り終えるのに三日かかったとか一週間かかったとかいう話が、よく伝えられている。 (略)
このように英雄叙事詩は語るほうにも聞くほうにも体力が要求され、語り手にはもちろん強靭な記憶力が要求される。 もっとも、記憶といっても一字一句が丸暗記されているわけではない。 英雄叙事詩はいわば常套的な決まり文句の連続で出来ており、同じような場面ならいつでも通用する表現を数多く覚えておいて、それをストーリーの展開に合せてその場で紡ぎ出していくことで、演じられるものである。  (「第三章 超人の世界」 P.140~141)

著者は、それを、ホメロスが古代ギリシャの有名な叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」の「作者」なのか「伝承者」なのか、というホメロス学者の研究を引用しながら、「フォーミュラ(常套句)」と「テーマ(主題)」という考え方でアイヌの口承文芸を分析している。
アイヌの物語でいえば、「カムイが人間から感謝の酒を受け取り、それを醸し増やして酒宴の準備をする場面」の表現、

イワイ シントコ  (六つのシントコを)  /  ウトゥル オライェ  (下座にすえ)
イワイ シントコ  (六つのシントコを)  /  ロ オライェ  (上座にすえ)
・・・
オロワカイキ  (そうして)
トゥッコ レコ  (二日、三日)  /  シラン コ  (たつと)
タネ ネ クス  (今や)
トノト カムイ  (酒のカムイの)  /  フラ マウェ  (香りが)
チセ ウ  (家の中に)  /  エトゥシナッキ  (満ち満ちた)

この一連の表現は、特定の話に固定的に属しているわけではなく、「酒を醸すという場面」(テーマ)を描く必要がある場合に、どんな話の中であろうとこのように語ればよい。
ところが、この酒作りの場面を描写する表現も固定したものではなく、さまざまな常套句の組合せがある。 「ひと固まりの常套句」を「フォーミュラ」と呼ぶ。
上の例では、「トゥッコ レコ  シラン コ」などの常套句の固まりがそれだ。

優秀な語り手は、いろんな話をたくさん聞くことによって、こうしたフォーミュラとテーマを記憶の中に数多くストックしている。 そしてそれを必要な場面で自由自在に紡ぎ出していく技術を身につけている。 それができるようになれば、新しい話を覚える場合でも、極端にいえばストーリーの流れだけを頭に入れればよいのである。 そのストーリーに合せて、それぞれのテーマでそれにふさわしいフォーミュラを展開していけば、ほぼ同じものが再現されることになるし、・・・(後略)  (「第四章 アイヌ文学の特質」 伝承と変容 P.209~)

そうか、そうだったのか、という思いがして、まさに〝目から鱗〟であった。
ぼくにとっては、アイヌ神謡(カムイユカ)や、英雄叙事詩(ユカ)の楽しみ方が、また一つ増えたのである。 これはいい本ですよ。
引用文中の「イワイ シントコ (六つのシントコ)」の「イワイ」は、「イワン(六つ)」の誤植のような気もするが、この本の記載通りとした。
巻末の「注」には、この一節が「久保寺逸彦『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』260頁 平賀エテノア口述」とあるので、あるいは原典の記述に従ったのかもしれない。
アイヌ語で「イワン」は「六つ」を意味する単語で、萱野茂によれば、「六という数字は、手の指五本で数えきれないところから、たくさんのという意味にもなる」(『カムイユカと昔話』 P.330)ということで、アイヌの物語ではよく使われる常套句である。
なお、「イワイ」という語もアイヌ語にあり、「ご祝儀」「お礼」を意味することが、萱野茂『アイヌ語辞典』、中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』に書かれている。 このように、日本語からの〝借用語〟もアイヌ語には多く、「コソンテ(小袖)」「サケ(酒)」もそれである。
また、これは蛇足だが、集英社の雑誌「ノンノ non-no」の題名は、アイヌ語の幼児語である「ノンノ(花)」という言葉を借用したものだという話がある。
― 2007.7.28 追記 ―
上に書いた「イワイ シントコ」が誤植ではないか、という記述について、そうではなくこれで正しいのです、というご指摘のメールをいただいた。
「アイヌ語のnはsまたはyの前でyに変化する法則があり、たとえばpon saranipはpoy saranipという発音になります。 この場合、iway sintokoのiwayは、iwanの末尾のnがsintokoのsに引っぱられてyになった形です」と、詳しい理由も教えていただいた。
とても気になったので、調べてみたところ、ご指摘のとおりであることがわかった。
『CDエクスプレス アイヌ語』(中川裕/中本ムツ子 著、白水社)に、詳しい説明があった。
この本によると、これはアイヌ語特有の「音交替」という現象で、例として、pon seta(小さな犬)がpoy seta、pon yuk(小さなシカ)がpoy yukと発音される例も示されている。
さらに、「テキストや解説の中でカナ表記とローマ字表記が食い違っているように見える場合があっても、それはこの音交替を表現するためのもの」と記載されていた。
萱野茂さんの『カムイユカと昔話』(小学館)や、片山龍峯さんの『「アイヌ神謡集」を読みとく』(草風館)に「イワン シントコ」というカナ表記があったため、このような早とちりをしてしまったが、またひとつ勉強になった。
アイヌ語は、やはり耳で覚えなければいけないのだな、とも思ったのだった。
ご指摘くださった方へ、ここでお礼申しあげます。 ありがとうございます。
 
 
 
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