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アイヌ資料 4

 

<< 初回掲載日 2005/7/29 / 最終更新日 2005/8/7 >>

 
    アイヌ資料 目次へ  
    アイヌ神謡集 (知里幸恵) 「アイヌ神謡集」を読みとく 「アイヌ神謡集」をうたう (CD)  
 

● 知里幸恵 『アイヌ神謡集』 の世界

知里幸恵 (ちり・ゆきえ)
1903年(明治36)、北海道胆振・幌別(現・登別市幌別)生まれ。
1922年(大正11)9月18日、寄寓先の東京の金田一京助邸で、心臓麻痺のため急死。 19歳。

知里幸恵(正しくは〝幸惠〟だが、幸恵と表記する)の短い生涯には興味深いエピソードがたくさんあるが、他の稿でとりあげたので、ここでは彼女が生きた明治末から大正期の時代背景に触れてみたい。

1899年(明治32)、彼女が生まれる4年前に「北海道旧土人保護法」が公布されている。
この法律は、その後、なんと100年近くも存続し、1997年(平成9)に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興法)の公布と同時に廃止された。
同じ頃、旭川の近文では、アイヌに〝給与〟された土地をめぐって紛争が起きていた。
その事情は複雑だが、もともと土地を私有するという考え方のなかったアイヌの人たちが住む大地(モシリ)を、明治政府が勝手に〝北海道〟と名付けて大日本帝国の領土にしてしまったのである。
  アイヌ資料5 「野村義一『アイヌ民族を生きる』」 の稿を参照いただきたい 》

彼女が生まれた明治36年、夏目漱石(36歳)がロンドンから帰国。 尾崎紅葉が35歳で死去。
のちに幸恵と運命的な出会いをする金田一京助は、仙台の第二高等学校に在学中(翌年、東京帝国大学に入学)。
漱石と親しかった正岡子規は、この前年(明治35年)35歳で死去。
1904年(明治37) 日露戦争が始まる。
幸恵の父・高吉は、この戦争に輜重兵として従軍し、戦後、金鵄勲章を受けている。
1912年(明治45) 金田一京助の盛岡中学の後輩で、終生親しかった石川啄木が26歳の若さで死去。
1916年(大正5) 漱石が49歳で死去。
1922年(大正11) 幸恵と同じ年に森鴎外が60歳で死去。

幸恵と同時代、違星北斗(いぼし・ほくと/1901~1929)、バチェラー・八重子(1884~1962)、森竹竹市(1902~1976)らのアイヌ出身の歌人がいた。
違星北斗は、上京して金田一京助宅を訪ねたこともあり、自らの同人誌『コタン』の創刊号(昭和3年)冒頭に、知里幸恵の『アイヌ神謡集』序文を収録して追悼している。 彼は、のちに平取に行き、バチェラー・八重子と出会う。
バチェラー・八重子(7歳の時にジョン・バチェラーの洗礼を受け、彼の養女となった)は、アイヌ伝導師だった金成マツ(幸恵の伯母)に憧れて、キリスト教の伝導に生きようと決心したという。
幸恵がまだ幌別の自宅にいた頃、八重子が幸恵の母・ナミ(金成マツの妹)を訪問した時のこと。
3歳の幸恵が、「私は明治何年何月何日生まれの知里幸恵と申す者です」と挨拶し、その利発さ、しつけのよさに八重子が驚いたというエピソードも残されている。
  《 小笠原信之 著 『アイヌ近現代史読本』 緑風出版/2001 を参考にした 》

 
知里 幸恵 『アイヌ神謡集』

知里 幸恵
『アイヌ神謡集』
岩波文庫/1978 第1刷

『アイヌ神謡集』  知里幸恵 編訳/岩波文庫/2004 第35刷
  1923年(大正12)8月10日、郷土研究社から刊行(幸恵没後)。
   これは、柳田国男らが出版していた「炉辺叢書」シリーズの11冊目。
  その後、1970年(昭和45)に札幌の広南堂書店から復刻刊行、74年再版。
  1978年(昭和53)、岩波文庫で刊行され、ようやく手軽に読めるようになった。
文庫版で200ページにも満たない小さな本だが、読むほどに味わいの深まる一冊。
いま、ぼくの中には、この本と著者についての情報が集まりすぎたために、かえって虚心に読むことがむずかしくなったが、初心に戻って書かれたテキストを素直に読んでみると、背後に大きな世界の広がりを感じることができる。
それは、一つに、アイヌ語の不思議な響き、もう一つは、彼女の日本語訳から受け取ることのできる、アイヌが語り伝えてきた豊かな物語世界、といったものである。

わずか500円足らずの出費で手に入る本。 ぜひ原典にあたっていただきたいのだが、そう言ってしまうとこれ以上書くことがなくなってしまうので、内容紹介をしよう。

幸恵自身による日本語の序文(大正11年3月1日付)、目次(アイヌ語ローマ字表記と日本語表記)、13の神謡(アイヌ語ローマ字表記と日本語訳)、巻末に金田一京助のエッセイ「知里幸惠さんのこと」(大正11年7月15日付、及び、大正12年7月14日付追記=知里幸恵没後の追悼文)。
以上が、底本の郷土研究社刊行当時の内容と思われる。
岩波文庫版では、さらに、知里真志保の「神謡について」という小論文(平凡社/知里真志保著作集から)が収められていて、神謡について理解を助けてくれる内容だ。


知里幸恵の思いが伝わってくる名文として名高い。
その全文を紹介したいほどだが、ここで、作家・池澤夏樹の鋭い指摘を引用する。
池澤は、「彼女の印象はまず若さである」とし、幸恵の早世にふれて次のように言う。

 若くして大業を成した者とは、実はより大きな運命的な力によって任を与えられた者なのではないか。 (略) 神々の恩寵を受け、彼らの道具となる能力を天才と呼ぶのだ。 神々は若い天才を愛し、大いなる任務を与え、それが終わると速やかに身近に呼び返す。
 では、知里幸恵に『アイヌ神謡集』を書かせたのはいかなる神々だったのだろう。改めて考えてみると、この本の性格がいかにも一つの任務という感じなのだ。神々はこれを若い幸恵に与え、彼女はそれに十全に応えた。 そして神々は濁世から天界に彼女を呼び戻した。 彼女の生涯そのものが神話的であった。
 なぜ任務か。第一にこれは創作ではなく翻訳である。つまり先行するテクストあっての仕事である。しかも先行テクストそのものも個人の創作ではなくアイヌ民族ぜんたいの共同作品であり、語り継ぎの長い歴史をもつ口承文芸である。それが彼女に託された。
 (略)
 幸恵がしなければならなかったのは、これを日本語に訳して、その価値を広く知らしめ、シサムの側の関心を喚起してアイヌ文学の保全を図ることだった。
  《 『知里幸恵「アイヌ神謡集」への道』 財団法人北海道文学館 編/東京書籍/2003 》

この池澤夏樹の言いまわしは難しいが、彼の言う「テクスト」とは、アイヌに伝承されていた神謡(カムイユカ)の物語。 「シサム」はアイヌから見た「和人」を意味する。
幸恵の「序」の最後の部分は次のように書かれていて、なるほどと思わせる。
 (句読点を書き改めた)

 けれど・・・・・・愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。
 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

13編の神謡
神謡(カムイユカ kamui yukar)の特徴として、〝サケヘ〟(sakehe)と呼ばれる繰り返しの文句(〝折り節〟〝折り返し〟ともいう)の付くことがあげられる。
サケヘの語源は、「サ」(sa=節ふし)と「ケヘ」(ke-he=所)という意味からきている。
(片山龍峯『「アイヌ神謡集」を読みとく』 神謡について P.9)
サケヘの言葉は、今となっては意味がわかりにくくなっているが、鳥獣(神々)の鳴き声や所作をあらわすものが多いという。
口承文芸である神謡には、題名が付けられらず、それぞれの話に固有のサケヘが題名代わりに使われているようである。 この『アイヌ神謡集』に収められている13編の神謡のタイトルも同様である。

便宜上、第一話から第十三話まで、1から13の番号を付けて紹介する。

1. 梟の神の自ら歌った謡 「銀の滴降る降るまわりに」
2. 狐が自ら歌った謡 「トワトワト」
3. 狐が自ら歌った謡 「ハイクンテレケ ハイコシテムトリ」
4. 兎が自ら歌った謡 「サンパヤ テレケ」
5. 谷地の魔神が自ら歌った謡 「ハリツ クンナ」
6. 小狼の神が自ら歌った謡 「ホテナオ」
7. 梟の神が自ら歌った謡 「コンクワ」
8. 海の神が自ら歌った謡 「アトイカ トマトマキ クントテアシ フム フム!」
9. 蛙が自らを歌った謡 「トーロロ ハンロク ハンロク!」
10. 小オキキリムイが自ら歌った謡 「クツニサ クトンクトン」
11. 小オキキリムイが自ら歌った謡 「この砂赤い赤い」
12. 獺(かわうそ)が自ら歌った謡 「カッパ レウレウ カッパ」
13. 沼貝が自ら歌った謡 「トヌペカ ランラン」

このうち、有名な1と11だけ、何故か日本語の題名が付けられているが、他の11編はアイヌ語のサケヘがタイトルとなっている。
「何々(の神)が自ら歌った謡」と題されているように、神謡の主人公は、アイヌをとりまく動植物神・自然神や、「オキキルムイ(okikirmui)」という文化神=アイヌに生活文化を教えた神(萱野茂 アイヌ語辞典による)である。
梟、狐、兎、狼、蛙、獺などの鳥獣や魚貝類(沼貝)の他、「谷地の魔神」(谷地は湿地=アイヌ語でnitat)、「海の神」(沖の神=シャチ、アイヌ語でrepun kamui)など、アイヌは自然の中に神々を見ていた。
さらに、鳥獣の中でも位の上下があって、狐や兎、蛙、獺、沼貝には「神」の名が付けられていないのが面白い。 第三話に登場する狐(黒ギツネ=chironnup kamui)は例外だが、オキキリムイに悪さを働いたために悪い死に方をしている。

それぞれの神謡の終りは、「・・・と、何々(の神)が物語りました」となっているが、それは「ふくろうの神様」(1)であったり、「狐の頭かしら」(2)、「兎の首領」(4)、「ふくれた蛙」(9)、「一つの沼貝」(13)だったりする。
それぞれの物語のおもしろみに踏み込む余裕はないが、アイヌの精神世界、物の考え方が伝わってくる内容である。

サケヘの面白さ
サケヘは個々の物語によって違い、長いもの、短いもの、まちまちだが、物語の中で執拗に繰り返されるものだった。
知里幸恵の記述では、煩雑さを避けるために(と思われる)、サケヘの記述は最小限におさえられているが、ローマ字によるアイヌ語表記を注意深くみると、本来サケヘが入るべき箇所は2文字ぶんの空白をとっていることがわかるのである。

例えば、第二話の「トワトワト」というサケヘは、次のように繰り返されていたと思われる。
原文のローマ字記述に、カッコ書きでサケヘを補ってみた。

Towa towa to
Shineanto ta (towa towa to) armoisam un (towa towa to) nunipeash kusu (towa towa to)
sapashi (towa towa to).
Shumatumu chashchash, towa towa to
nitumu chashchash, towa towa to ・・・

声に出して4拍子になるように読んでみると、独特のリズムが感じられる(○は一拍)。

シネアントータ  トワトワト○
モイサウン  トワトワト○
ヌニペアクース  トワトワト○ ・・・

このように、ほんらい、うたい継がれてきた神謡の生命は、文字では伝わりにくいが、下に紹介する『「アイヌ神謡集」を読みとく』、『「アイヌ神謡集」をうたう』というありがたい本とCDがある。
また、岩波文庫巻末の知里真志保「神謡について」でも、「神謡の折返」について詳しい論考が展開されていて(岩波文庫 P.178~184)、とても興味深い。

アイヌの世界観
ところで、『アイヌ神謡集』について、吉本隆明という人が『新潮古典文学アルバム 別巻 ユーカラ・おもろさうし』(新潮社)に寄せたエッセイの中で、興味深い指摘をしている。
それは、『アイヌ神謡集』に繰り返しあらわれる描写についてである。
 (改行位置と句読点を書き改めた)

私は私の体の耳と耳の間に坐って いましたが・・・ (第一話)
もとのままに私の冑の 耳と耳の間に坐っていました (第一話)
ふと気がついて見ると 大きな黒狐の耳と耳との間に私は居りました  (第四話)
ふと気がついて見たところが 大きな竜の耳と耳の間に私はいた  (第五話)
ふと気がついて見たら 芥捨場の末に、 一つの腹のふくれた蛙が
 死んでいて、 その耳と耳の間に私はすわっていた  (第九話)
ふと気がついて見ると、 大きな獺の耳と耳の間に私はすわって いた  (第十二話)

吉本隆明は、この定型化された表現を次のように分析している。

 わたしがたいへん興味深く関心をそそられたのは、主人公の動物が人間の弓で射られて気を失い死の国にいったというときの描写の一つの共通性のことだ。 (略)
この「耳と耳のあいだ」に坐るということが、慣用の言葉のようにおもえる。 霊魂がこの世とあの世との境目にあることを描くばあいこの「耳と耳のあいだ」に坐るというのが、アイヌの既視感になっていることがわかる。 (略) 臨死体験者が語る上方から眼だけになったじぶんがじぶんの姿を見ているという視線ととてもよく似かよっているといえよう。 アイヌの世界観でいえばこんなふうにして、あの世はこの世の有様とまったくおなじ風景で現われることになっている。
  《 『新潮古典文学アルバム 別巻 ユーカラ・おもろさうし』 新潮社/1992 》

思いがけず、難しい方向に進んでしまったが、知里幸恵が残したこの一冊の本には、尽きない〝謎〟が秘められているのかもしれない。
片山 龍峯 『「アイヌ神謡集」を読みとく』

片山 龍峯
『「アイヌ神謡集」を
  読みとく』
草風館 2003

『「アイヌ神謡集」を読みとく』  片山龍峯 著/草風館/2003
  知里幸恵『アイヌ神謡集』のアイヌ語部分を詳細に解説した労作。
知里幸恵は、15歳の夏(大正7年/1918)、金田一京助に出会い、その後の文通を通じて金田一からアイヌ語表記のためのローマ字習字をすすめられた。
幸恵は学校で英語やローマ字を習っていなかったので、彼女のローマ字は独習によるものである。
金田一は、幸恵に数冊のノートを送り、何でもいいからアイヌ語を書くように勧めた。
幸恵はこれに応えて、少しずつアイヌの伝承(神謡、昔話=ウウェペケ、早口言葉、ウポポ=座り歌、など)を書き綴っていった。
ノートは何冊にもなり、東京の金田一のもとに送られる。
そのうちの一冊が、のちに『アイヌ神謡集』として出版されたものである。

ところで、知里幸恵によるアイヌ語のローマ字表記は、当時としては画期的なものだった。
それは、アイヌ語の「閉音節」の表記に関する、彼女の鋭い感覚である。
どういうことか。 藤本英夫の『銀のしずく降る降るまわりに』から引用する。

アイヌ語には、日本語とちがって、閉音節がふんだんにあるが、たとえば閉音節の尾音の -r は、それに実在しない母音を加えてユーカラを yukara と書く人がいる。 これは間違いであって、ラ ra と聞こえたのは、直前の母音のaが響いたからである。 この場合、語尾のaはアイヌの意識には存在しないものである・・・(以下、略)
 《 藤本英夫 『銀のしずく降る降るまわりに』 草風館/1991-2000 P.223 》

知里幸恵の表記法は、yukarである。
上の引用は、知里真志保が『アイヌ語入門』で書いていることを藤本英夫が援用したものであるが、当時は、金田一京助などもこの閉音節表記に注意を払っていなかった。
幸恵のアイヌ語表記を見て、金田一はすっかり感心し、幸恵宛に次のように書いている。

ただ r だけで済ましておおきになるあなたの表記法は、誠に大胆なご見識で、私も思い切ってそうは今迄書かなかった(ただバチラー先生の綴方に盲従して)のを、あなたの表記法を見て、すっかり感服していた処だったのです。 世界のどこへ出しても非難のされようのない正しい表記法なのです。 どんどんそれでおやりなさい。

二十歳も年下の少女に対し、まるで対等な学者に対するのと同じ礼を尽くしたこの文面、いかにも金田一京助らしい。
それはさて置き、このことからもわかるように、知里幸恵の『アイヌ神謡集』のアイヌ語表記は、きわめて現代的なのである。
前置きが長くなってしまった。
ここで紹介する『「アイヌ神謡集」を読みとく』という本は、知里幸恵のアイヌ語表記をテキストとして、一語一語にいたるまで詳細に分析、解釈し、考察を加えたものである。
著者の片山龍峯(かたやま・たつみね)は、この本と同時期に、中本ムツ子の協力を得て、『アイヌ神謡集』13編を、ほんらいの伝承形式である〝謡(うた)〟として復元するという画期的な試みをしている(次項)。
もしも知里幸恵の時代に、録音技術が現代のように発達していたら、彼女はこれらの神謡を〝音〟として残し伝えようとしたのではないだろうか、などと想像してみるのである。
片山 龍峯 『「アイヌ神謡集」をうたう』

片山 龍峯(復元)
中本 ムツ子(うた)
『「アイヌ神謡集」をうたう』
草風館 2003 (CD)

『「アイヌ神謡集」をうたう』  片山龍峯(復元)/中本ムツ子(うた)/草風館/2003
  知里幸恵『アイヌ神謡集』を〝謡(うた)〟として復元、蘇らせた貴重な音源。
  CD3枚組。

片山 龍峯(かたやま・たつみね)
 1942年 東京生まれ。 東京外国語大学ポルトガル・ブラジル語学科卒業。
 映像ディレクターとして『日本人の人間関係』『雷鳥の四季』『空を飛ぶクモの謎』など。
 著書に、『萱野茂・アイヌ語会話(初級編)』(編著)
 『[増補版]日本語とアイヌ語』(すずさわ書店/1993)など。
 片山言語文化研究所代表。

中本 ムツ子(なかもと・むつこ)
 1928年 北海道千歳市蘭越(らんこし)生まれ。
 アイヌ語を母語とする父母のもとで自然にアイヌ語とアイヌ文化を習得。
 14歳まで一緒に暮らした祖母・カナパンからも強い影響を受ける。
 1975年 自営のドライブイン・レストランに千歳のアイヌ古老達を集め、励ましながら
 アイヌ文化の伝承活動を始める。
 1991年 千歳アイヌ語教室の創設に加わり、運営委員長となる。
 1992年 国立劇場および遠野民話博覧会などで白沢ナベと共演。
 千歳アイヌ文化伝承保存会会長。

  草風館のサイト記事 http://www.sofukan.co.jp/books/134.html を参考にした。
  北川大 『アイヌが生きる河』 樹花社/2003 に、中本ムツ子と白沢ナベに関する記述がある。
   → アイヌ資料1 「アイヌが生きる河 (北川大)』」

CDの内容
  手元にあるCDのライナーノーツから転載。 アイヌ語タイトルと英文タイトルは、草風館のサイト
   http://www.sofukan.co.jp/books/134.html から転載。

【 CD-1 】
1. イントロ音楽 (シーベグ・シーモア、浜田隆史「海猫飛翔曲」より)
  ギター:浜田隆史 バス:黒川和弘 フィドル:黒川かほる
2. 「アイヌ神謡集」序 日本語朗読:墨谷真澄
3. 「アイヌ神謡集」序 英語朗読:Julie Kaizawa
4. 第1話 シマフクロウ神の謡 「シロカニペ ランラン ピカン」
  kamuycikap kamuy yayeyukar / Song sung by the owl god
5. 第2話 キツネの謡 「トワトワト」
  cironnup yayeyukar / Song sung by the fox god
6. 第3話 キツネの謡 「ハイクンテケ ハイコシテトゥリ」
  cironnup yayeyukar / Song sung by the fox god
【 CD-2 】
7. 第4話 ウサギの謡 「サンパヤテケ」
  isepo yayeyukar / Song sung by the hare god
8. 第5話 谷地の魔神の謡 「ハリックンナ」
  nitatorunpe yayeyukar / Song sung by the dragon god
9. 第6話 小オオカミ神の謡 「ホテナオ」
  pon horkewkamuy yayeyukar / Song sung by the little wolf god
10. 第7話 シマフクロウ神の謡 「コンクワ」
  kamuycikap kamuy yayeyukar / Song sung by the owl god
【 CD-3 】
11. 第8話 シャチ神の謡 「アトゥイカトマトマキ クントゥテアシ フ!」
  repun kamuy yayeyukar / Song sung by the killer whale (orca) god
12. 第9話 カエルの謡 「トーロロ ハンロ ハンロ
  terkepi yayeyukar / Song sung by the frog god
13. 第10話 小オキキリムイの謡 「クッニサ クトゥン クトゥン」
  pon Okikirmuy yayeyukar / Song sung by little Okikirmui
14. 第11話 小オキキリムイの謡 「タノタ フレフレ」
  pon Okikirmuy yayeyukar / Song sung by little Okikirmui
15. 第12話 カワウソの謡 「カッパ レウレウ カッパ」
  esaman yayeyukar / Song sung by the otter god
16. 第13話 沼貝の謡 「トヌペカ ランラン」
  pipa yayeyukar / Song sung by the swamp mussel god
17. エンディング音楽 (シーベグ・シーモア、浜田隆史「海猫飛翔曲」より)
  ギター:浜田隆史 バス:黒川和弘 フィドル:黒川かほる


このCDで『アイヌ神謡集』の13編を〝謡〟として再現した中本ムツ子は、『知里幸恵「アイヌ神謡集」への道』(東京書籍/2003)に寄せた「『アイヌ神謡集』をうたう」という一文で、次のように語っている。
すこし長くなるが、その一部を紹介したい。

 私の母が生きていれば今年で九十九歳になります。 知里幸恵さんと一歳しか違いません。 ですから幸恵さんは母と同じころ生まれ、同じころ青春時代をむかえ、同じ時代の空気を吸って生きた人なのだと思いました。(略)

 母は小学校に通っていたころ同じクラスの生徒から「あんたは旧土人、私たちは大和民族」などと言われてとても辛かったと語っていました。 幸恵さんも辛い思いをしたことを後に本で読んで涙がこぼれました。(略)

 私は子供のときからアイヌは劣った民族だということを刷り込まれてきたので、アイヌから逃げるようにして故郷を離れ、札幌で暮らしていました。 そして、五十歳を過ぎてからようやく故郷の千歳の蘭越に戻り、そこでアイヌ文化にもう一度目を向けるようになりました。 それまでは、アイヌに関する本を読むことはしませんでしたが、故郷に帰ってから友人に知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』を貸してもらったことがあります。 ローマ字で書かれたアイヌ語は全く分かりませんでしたが、序文の内容にとても共感をおもえました。(略)

 私の子供の頃、家にも神謡やウエペケレを語る人が来て、語っていました。 でも私はあんな単調なもののどこがいいんだろうと思って、小説や外国の翻訳文学を読んでいました。 母はアイヌ語で神謡やウエペケレ、シノッチャなども出来た人でした。 仕事に出た先で母は若い人たちに日本語に訳して話を聞かせてやっていたそうです。 (略) 一方、私は、母をバカにしたような気持ちでアイヌ文化を冷ややかに見ていました。 そんな私だったのですが、末にまさか神謡を語るようになるなどとは母には想像も出来なかったことでしょう。 しかし、母は驚きながらもそんな自分の娘を嬉しそうに見ていることと思います。 母とほぼ同じ歳の知里幸恵さんの残したカムイユカ(神謡)を歌うなどとはきっと感無量のことでしょう。

 
 
 
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