『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』 藤本英夫 著/草風館/2002
『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』 (草風館/1991) の続編。
著者が前作のあとがきに書いている「別のところからもう一度、知里幸恵という女性を追い直そうとしている」ということばを受けて、あらためて知里幸恵の生涯と内面を綿密に追い直したもの。 「別のところから」というのは、知里幸恵の人間像に迫るためにとった〝ノン・フィクションを離れた視点から〟という手法であろう。
この本の「あとがき」に著者の熱意がよくあらわれている。
(前略) 最初に書いたのは1973年だったからもう30年になる。
以来、知里幸恵という女性に関心を寄せる人が増えてきたことは嬉しいことである。が、一方ではこの本でも触れたように間違った幸恵像が伝えられるようにもなった。
私が、もう一度、彼女の生涯に挑戦したくなったのは、そのような彼女に対する誤伝、過った理解を正しておきたかったことと、私自身にもあった、知里幸恵理解の不足を整理したかったからだった。 (P.293)
では、著者が描きたかったのは何か。 要約すると、次のようなことだ。
津軽海峡を渡った彼女が、海を越えた異郷の地に、自分たちの文化であるアイヌ語地名をみる。また、金田一家に寄寓した彼女の、東京の風物の見聞記は、アイヌの目で見た当時の日本文化批評だ。 そういう視線は、江戸時代、和人の最上徳内や松浦武四郎たちの蝦夷地紀行以上の重さを持っていたこと。
もうひとつ、知里幸恵が祖母・モナシノウクの「お婆ちゃんっ子」だったという言葉の重要性。
この言葉のなかには、人間の文化、人間の知恵の継承の形がある。
知里幸恵の『アイヌ神謡集』、それを形にした知里幸恵という人は、モナシノウクとその関係を見守り育てた金成マツという二人の女性の〝珠玉の作品〟だったということ。
次の記述からは、旭川区立女子職業学校に通っていた頃の、彼女の〝悲鳴〟のような気持が伝わってきて、痛々しい。
ちなみに、彼女は、和人の子女に劣らぬ優秀な成績、110名中4番で入学している。
その頃の幸恵の内心を垣間みた人がいる。小学校の後輩の松井マテアルである。
―(中略)― 幸恵の声が聞こえた。
「学校に行くの、面白いー?」
マテアルは、「うん、面白い――」と答えて幸恵の顔をみた。 幸恵が「そおー」という顔をしたので、「私も幸恵姉さんみたいに上の学校にいきたい・・・」と、言った。
すると、幸恵はいっしゅん間をおいて、
「そんなに勉強したいー? 勉強、勉強なんて、何さ――」
と、言った。 いつにない鋭い声色だった。 ―(中略)―
「教育なんて何さ、教育ってそんなに大事なもの? 差別されてまで学校に行きたいかい? 肩身のせまい思いまでして上にいきたいの? それよりも勉強がいやになったら、自由にはばたいたらいい。 強くなりなさいよ――」 (P.125)
ところで、作家の池澤夏樹は『知里幸恵「アイヌ神謡集」への道』(東京書籍/2003)に寄せた一文「個人から神話へ――入口としての知里幸恵」の中で、次のように述べている。
知里幸恵は大きなシステムの入口である。 そうなることを彼女は望み、それに成功した。 彼女の短い生涯、利発で穏和な性格、また最後の日々に書き残したことなどはとても興味深いが、そこに留まる者は最終的な彼女のメッセージを見落とすことになる。
池澤夏樹は、彼女が残した『アイヌ神謡集』のテキストを読むことに大きな意味がある、と力説していて納得できるのだが、ぼくは、彼女の生涯そのものに強くひかれる。
『アイヌ神謡集』については別のコーナーで取りあげる予定だが、彼女の人間像に迫るために、次の資料が参考になる。
『知里幸恵 遺稿 銀のしずく』 草風館/2001
『知里幸恵 「アイヌ神謡集」への道』 東京書籍/2003 |