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アイヌ資料 3

 

<< 初回掲載日 2005/5/1 / 最終更新日 2005/7/29 >>

 
    アイヌ資料 目次へ  
    銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵 十七歳のウエペケレ 知里真志保の生涯  
    金田一京助      
 

● 知里幸恵と知里真志保  ― 藤本英夫による四冊の評伝 ―

藤本英夫 (ふじもと・ひでお)
1927年、北海道手塩生まれ。 1950年、北海道大学卒業後、静内高校、札幌星園高校教諭、北海道教育委員会、北海道埋蔵文化財センターに勤務。 1993年、北海道文化財研究所所長を退職。
著書に『アイヌの国から』『アイヌの墓』『金田一京助』『泉靖一伝』『キムチ狂いの韓国紀行』など。

 
藤本 英夫 『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』

藤本 英夫
『銀のしずく降る降る
 まわりに
  知里幸恵の生涯』
草風館 1991

『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』  藤本英夫 著/草風館/1991
  1973年出版 新潮選書『銀のしずく 降る降る』(絶版)の再版。
知里幸恵は、明治36(1903)年北海道の登別に生まれ、6歳の時、旭川の近文に移住した叔母・金成マツのもとに預けられ、叔母、祖母・モナシノウクと同居(後に弟の真志保も一時期同居)。 旭川の学校に通った。
母のナミと叔母のマツは、バチェラーが函館に開設したアイヌ伝導学校に寄宿して学んだクリスチャンで、叔母のマツは近文の「聖公会伝道所」でキリスト教の伝導をしていたのである。 知里幸恵が暮らしたそこは、近隣のアイヌの人々が集まってユカを語り合ったりする場でもあった。
幼い頃から〝お婆ちゃんっ子〟として育ち、日本語とアイヌ語のいわば〝バイ・リンガル〟の生活を送っていた彼女は、大正7(1918)年、15歳の時に、金成マツを訪問した金田一京助と出会い、これが彼女のその後の生き方を決めた。
金田一博士との文通のなかから、神謡をローマ字で書き綴ることを始めた彼女は、大正11(1922)年5月、金田一博士の強い勧めで上京。 金田一宅に寄寓して『アイヌ神謡集』出版原稿の校正を続けていたが、9月18日、心臓病のために急逝。 19歳3ヵ月だった。

藤本英夫の手になるこの評伝には、知里幸恵の両親(知里高吉、ナミ)や弟たち(高央と真志保)のこと、旭川での生活、金田一博士との出会い、東京での4ヵ月の生活などが、じつに丹念な調査・取材に基づき詳細に記述されている。
そしてなによりも、偏見と差別にさらされて生きたひとりの少女の姿が鮮やかに描かれていることに、ぼくは感動した。

金田一京助が金成マツ宅を訪れ、一泊した翌朝、知里幸恵と博士との会話が感動的だ。
いわゆる〝近文の一夜〟の有名なエピソードで、金田一京助の『私が歩いて来た道』に書かれているという。

〝近文の一夜〟が明けて、金田一博士がマツたちに別れるとき、幸恵は、
「先生は、私たちのユーカラのために、貴重なお時間、貴重なお金をお使いくださって、ご苦労なさいますが、私たちのユーカラはそういう値打ちがあるものなのでしょうか」
と、目をまるくして質問した。 ―(中略)―
熱っぽい博士の答えを聞いた幸恵は、
「先生、はじめてわかりました。私たちは今まで、アイヌのこととさえいったら、なにもかも、恥かしいことのようにばっかり思っていました――」
と、大きい目にいっぱい涙を浮かべながら続けた。
「(略)ただいま目が覚めました。これを機会に決心いたします。私も、全生涯をあげて、祖先が残してくれたこのユーカラの研究に身を捧げます」  (P.146~148)

藤本 英夫 『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』

藤本 英夫
『知里幸恵
 十七歳のウエペケレ』
草風館 2002



『知里幸恵 遺稿 銀のしずく』

『知里幸恵
 遺稿 銀のしずく』
草風館 2001



『知里幸恵 「アイヌ神謡集」への道』

『知里幸恵
 「アイヌ神謡集」への道』
東京書籍 2003

『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』  藤本英夫 著/草風館/2002
  『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』 (草風館/1991) の続編。
著者が前作のあとがきに書いている「別のところからもう一度、知里幸恵という女性を追い直そうとしている」ということばを受けて、あらためて知里幸恵の生涯と内面を綿密に追い直したもの。 「別のところから」というのは、知里幸恵の人間像に迫るためにとった〝ノン・フィクションを離れた視点から〟という手法であろう。
この本の「あとがき」に著者の熱意がよくあらわれている。

(前略) 最初に書いたのは1973年だったからもう30年になる。
以来、知里幸恵という女性に関心を寄せる人が増えてきたことは嬉しいことである。が、一方ではこの本でも触れたように間違った幸恵像が伝えられるようにもなった。
私が、もう一度、彼女の生涯に挑戦したくなったのは、そのような彼女に対する誤伝、過った理解を正しておきたかったことと、私自身にもあった、知里幸恵理解の不足を整理したかったからだった。  (P.293)

では、著者が描きたかったのは何か。 要約すると、次のようなことだ。

津軽海峡を渡った彼女が、海を越えた異郷の地に、自分たちの文化であるアイヌ語地名をみる。また、金田一家に寄寓した彼女の、東京の風物の見聞記は、アイヌの目で見た当時の日本文化批評だ。 そういう視線は、江戸時代、和人の最上徳内や松浦武四郎たちの蝦夷地紀行以上の重さを持っていたこと。
もうひとつ、知里幸恵が祖母・モナシノウクの「お婆ちゃんっ子」だったという言葉の重要性。
この言葉のなかには、人間の文化、人間の知恵の継承の形がある。
知里幸恵の『アイヌ神謡集』、それを形にした知里幸恵という人は、モナシノウクとその関係を見守り育てた金成マツという二人の女性の〝珠玉の作品〟だったということ。

次の記述からは、旭川区立女子職業学校に通っていた頃の、彼女の〝悲鳴〟のような気持が伝わってきて、痛々しい。
ちなみに、彼女は、和人の子女に劣らぬ優秀な成績、110名中4番で入学している。

その頃の幸恵の内心を垣間みた人がいる。小学校の後輩の松井マテアルである。
―(中略)― 幸恵の声が聞こえた。
「学校に行くの、面白いー?」
マテアルは、「うん、面白い――」と答えて幸恵の顔をみた。 幸恵が「そおー」という顔をしたので、「私も幸恵姉さんみたいに上の学校にいきたい・・・」と、言った。
すると、幸恵はいっしゅん間をおいて、
「そんなに勉強したいー? 勉強、勉強なんて、何さ――」
と、言った。 いつにない鋭い声色だった。 ―(中略)―
「教育なんて何さ、教育ってそんなに大事なもの? 差別されてまで学校に行きたいかい? 肩身のせまい思いまでして上にいきたいの? それよりも勉強がいやになったら、自由にはばたいたらいい。 強くなりなさいよ――」  (P.125)

ところで、作家の池澤夏樹は『知里幸恵「アイヌ神謡集」への道』(東京書籍/2003)に寄せた一文「個人から神話へ――入口としての知里幸恵」の中で、次のように述べている。

知里幸恵は大きなシステムの入口である。 そうなることを彼女は望み、それに成功した。 彼女の短い生涯、利発で穏和な性格、また最後の日々に書き残したことなどはとても興味深いが、そこに留まる者は最終的な彼女のメッセージを見落とすことになる。

池澤夏樹は、彼女が残した『アイヌ神謡集』のテキストを読むことに大きな意味がある、と力説していて納得できるのだが、ぼくは、彼女の生涯そのものに強くひかれる。
『アイヌ神謡集』については別のコーナーで取りあげる予定だが、彼女の人間像に迫るために、次の資料が参考になる。

『知里幸恵 遺稿 銀のしずく』 草風館/2001
『知里幸恵 「アイヌ神謡集」への道』 東京書籍/2003

藤本 英夫 『知里真志保の生涯 アイヌ学復権の闘い』

藤本 英夫
『知里真志保の生涯
 アイヌ学復権の闘い』
草風館 1994

『知里真志保の生涯 アイヌ学復権の闘い』  藤本英夫 著/草風館/1994
  1982年出版 新潮選書『知里真志保の生涯』の改訂新版。
知里真志保は、明治42(1909)年生まれ。 知里幸恵の6歳下の弟。 長女・幸恵と真志保のあいだに長男の高央(たかなか)がいた。 また、真志保の下には芳枝という妹(一歳で死亡)と、二人の養女、ミサオとマキがいた。
知里真志保は、姉の幸恵とちがって子どもの頃はアイヌ語を使わない環境で育った。
12歳で登別の小学校を卒業後、旭川の叔母・金成マツの家に同居、旭川の北門尋常高等小学校高等科に入学。 姉の幸恵が急逝した時、彼は13歳だった。
その後、14歳の時に室蘭中学校に入学。 中学卒業後、金田一京助の援助を受けて旧制第一高等学校(一高)に入学。 この時の成績は、150人中12番という優秀なものだった。
昭和8(1933)年、東京帝国大学文学部英文科入学。 翌年、言語学科に転科。 アイヌ語に関する論文を次々と発表して注目を集める。
昭和12(1937)年、東京帝国大学文学部言語学科卒業、大学院へ。 三省堂に勤務後、樺太庁立豊原高等女学校の教師、その後、北海道大学に勤め、昭和29(1954)年、45歳の時に文学博士号取得。
昭和36(1961)年、持病の心臓病が悪化し、札幌の病院で死去。 52歳。

「知里博士は最後までアイヌとしてのコンプレックスから抜けきれず、内攻する悩みに苦しんだ」(『知里真志保の生涯』 草風館/1994年・初版 P.17~18)とあるように、彼には痛々しいまでのエピソードがいくつもある。

(その一) 学生時代、御茶の水を歩いていて見かけた「アイス・クリーム」という看板の文字が「アイヌ・クリーム」と読める、と友人に語った。
(その二) 学生寮で自己紹介の時「知里君、北海道ならアイヌを見たかい?」と言われて「アイヌが見たかったら、このおれがアイヌだよ」と言って体を乗りだした。
(その三) 晩年のエピソード。 本州から来たというご用聞きの少年に「なんで遠い北海道まで来たの?」と優しく聞いたところ、「アイヌがみたかったから」という少年の返答に
「ナニイッ、アイヌがみたくって!そんならここに立っているこの俺をよくみろ。それで十分だろッ」と大声をあげた。

彼のアイヌ語研究は、アイヌの血を引く者としての強い自負に裏打ちされたものだった。
それだけに、同業の学者や恩師ともいうべき金田一京助にさえ、少しでもまちがっていると思える時には批判・攻撃の手を緩めなかった。
昭和28年11月17日の毎日新聞(地方版)に載ったという次の記事に、ぼくは、知里真志保の真意を感じる。 長くなるが、藤本英夫のこの本(P.255)から引用する。

ぼくはジョン・バチェラーさんのアイヌ語辞典の誤りを指摘しては非人格者とどなりつけられ、恩師金田一博士の間違いを発見したためエチケットをわきまえぬと反撃され、アイヌ語の誤りを植物学の宮部金吾先生の原稿中にみつけて進言したため、またまたおのれの分際をわきまえぬ無礼者と学界から怒られたよ。学界とはオカシナところだなあ。ある権威者、つまり教授といわれる人にすがりついて学位をとる。出世する。そのためなら権威者のシモベに甘んずる。――これが日本の文化をチューブラリンにさせる。

知里真志保が生まれ育った登別の、駅からさほど遠くない丘の、海に近い崖の上に一本の石碑がある。 その碑には、筆太な大きい白い字で「銀のしずく」の一節が刻まれていて、台座には彼の親しい友人だった山田秀三の筆で碑のいわれが書かれているという。

銀のしずく 降れ 降れ まわりに   知里真志保之碑
彼は登別川のほとりで育った  アイヌ系のわんぱくな少年であった
長じて天才的言語学者となり  その名は今に世の畏敬の的である
故郷をしのび  海の見える丘に住みたいと語っていたという
有志相はかり  ここハシナウシを選びこの碑を建てた
 ( 『知里真志保の生涯』 プロローグ P.7~8 )

《注記》 知里幸恵が〝銀の滴 降る降る まわりに〟と日本語に翻訳した神謡の一節だが、知里真志保は〝降れ降れ〟と訳すべきという持論だった。

藤本 英夫 『金田一京助』

藤本 英夫
『金田一京助』
新潮社 1991



金田一 京助 『ユーカラの人びと』

金田一 京助
『ユーカラの人びと』
平凡社 2004

『金田一京助』  藤本英夫 著/新潮社(新潮選書)/1991
  1973年出版 新潮選書『銀のしずく 降る降る』 (知里幸恵の評伝) ならびに
  1982年出版 新潮選書『知里真志保の生涯』 この2冊の姉妹編。
明治、大正、昭和の三代を生きた〝巨人〟金田一京助の評伝。
著者の藤本英夫は、知里幸恵・真志保姉弟の生涯を追いかけるうちに、この二人と縁の深かった(著者の表現を借りると〝ぬきさしならない関係〟を結んだ)金田一京助博士について書きたくなったという。
知里姉弟の評伝と同じように、読み応えのある本だ。

金田一京助。 三省堂の辞書の編者として有名な国語学者、アイヌ語学者。
明治15(1882)年、盛岡市生まれ。 石川啄木と生涯にわたって親交を結び、東京帝国大学では夏目漱石の講義を受けた、明治期の〝綺羅星〟の一人である。
東大教授、国学院大学教授などを歴任、数々の著作を残し、昭和46(1971)年、東京で89歳の天寿を全うした。 国語学者の金田一春彦氏はその長男。

東京帝国大学在学中、上田万年、新村出らの講義から強い影響を受け、言語学の道へ。上田万年の「アイヌは日本にしか住んでいないのだから、アイヌ語研究は世界に対する、日本の学者の責任」という言葉がきっかけで、アイヌ語研究の草分けとなる。
大学在学中から、盛岡の伯父の経済的援助を受け、北海道、樺太に渡ってアイヌ語を採集し、フィールドワークに基づいた研究を続けた。 後の彼の弟子に、知里真志保、久保寺逸彦、山田秀三らがいる。
大正2年、柳田国男に出会い、認められたことで、その後の研究生活の経済的基盤を確立する。 柳田人脈に連なり、官費支給の恩恵にあずかるようになったのである。

知里幸恵・知里真志保との出会いについては、すでに書いた。
知里幸恵の『アイヌ神謡集』を世に出したことは、彼の大きな功績だが、知里幸恵から学んだものも大きかったはずである。
いっぽう、知里真志保との関係は微妙で、関係がぎくしゃくした原因の一つに、金田一京助の天真爛漫ともいえる言動があったようだ。 もっとはっきり言うと、彼には〝浮世離れ〟した一面があったようだ。 たとえば、彼が書いた『故知里幸恵さんの追憶』の一節。

私の書斎にいてもらって、アイヌ語の先生になってもらうと同時に、私から英語を教えてあげつゝ、お互いに心から理解しあって入神の交わりをしました。 涙を流してアイヌ種族の運命を語り合うことなどが習慣のようになりました。
(藤本英夫 『金田一京助』 20 幸恵の上京 P.176 からの孫引き)

このように「入神の交わり」などという言葉を、本人は熱をこめて使っていて、それはそれで気持ちはわかるのだが、誤解を招きやすい。 藤本英夫によると、これを「後に幸恵の弟の知里真志保はあらぬ方に疑ったことがある」という。 このことは、知里真志保の評伝に詳しく書かれている。
それはともかく、この偉大な学者の魅力は、著者の次の言葉(表紙)に表わされている。

何年か前までは、殆んどの日本人が知っていたその名も、急変する最近の世相のなかでは忘却の彼方に押し流されそうだ。 しかし、(中略)現代日本人の言語生活は、この学者に負うところが少なくないのではないか。 また、批判や異論はあるにしても、日本のアイヌ学はこの人なしには語れない。 私はそういう金田一京助の素顔に近づいてみたかった。

彼の大きな功績は、アイヌの口承文学に光をあて、書物として残したことである。
アイヌの〝ホメロス〟ともいわれた北海道日高国沙流川の〝盲目の詩人〟ワカルパが語る『虎杖丸(いたどりまる)の曲』というユカの採録や、晩年まで続けた、金成マツ筆録によるユカ・ノートの翻訳・出版(『アイヌ叙事詩ユーカラ集』)などがそれである。

この『金田一京助』という評伝には、石川啄木の一面(静子夫人が「石川さんとは親しくしないでね」と言ったほど、啄木は終生、金田一家に借金を重ねていたこと)や、戦後の〝新仮名づかい論争〟(小泉信三、桑原武夫、福田恒存、高橋義孝らとの論争)など、面白いエピソードも多い。
金田一京助の著作は、『金田一京助全集』(三省堂)のほかに、平凡社ライブラリーから『金田一京助の世界 1 ユーカラの人びと』『2 古代蝦夷(えみし)とアイヌ』が出ていて、手軽に読むことができる。
『ユーカラの人びと』は、藤本英夫編の随筆集。 樺太訪問記、アイヌ古老たちとの出会い、知里幸恵・真志保姉弟、その伯母と母である金成マツ・ナミ姉妹の思い出など、心あたたまる話が収められている。
『古代蝦夷とアイヌ』は、学術的な論文集のため内容は難しいが、一読の価値あり。
 
 
 
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