資料蔵

アイヌ資料 2

 

<< 初回掲載日 2005/4/2 / 最終更新日 2005/8/6 >>

 
    アイヌ資料 目次へ  
    チセ・ア・カラ 1976 アイヌの民具 1978 カムイユカと昔話 1988
    萱野茂のアイヌ語辞典 [増補版] 2002 五つの心臓を持った神 2003
    アイヌ・暮らしの民具 2005  
 

● 萱野茂の仕事

萱野茂は、その著書『アイヌの碑』の中で次のように語っている。

昭和28年の秋であったと思うのですが、いつものように山の働き先から家へ帰ってみますと、父が最も大切にしていたトゥキパスイ(捧酒棒)が見えません。 ―(中略)―
それまでも、数か月家を留守にして稼ぎから帰ってくると、いろりの端で使っていた民具が一点、また一点というふうに消えているように思っていました。 それが今度は、父自身が大切にしていたトゥキパスイがなくなっているのです。 ―(中略)―
わたしはこのころ、アイヌ研究の学者を心から憎いと思っていました。 ―(中略)―
わたしが彼らを憎む理由はいくつかありました。 二風谷に来るたびに村の民具を持ち去る。 神聖な墓をあばいて祖先の骨を持ち去る。 研究と称して、村人の血液を採り、毛深い様子を調べるために、腕をまくり、首筋から襟をめくって背中をのぞいて見る。・・・  ( 『アイヌの碑』 朝日文庫 P.126~127 )

萱野茂が一念発起して、アイヌの民具を買い取り、集め始めたのはこの頃である。
「山子」(木の伐採などの山の仕事)で稼いだ金のうち、生活費だけを家族に渡し、民具を買いに走ったという。
そして、アイヌ民具の蒐集をつづけていくうちに「アイヌ文化全般を見直そうという自然な気持ち」が生まれたと書いている。

昭和32年、二風谷を訪れた知里真志保(知里幸恵の弟、アイヌ語学者)と出会ったことも、大きな転機だったようだ。
また、昭和37年「観光アイヌ」として働いていた登別で金田一京助に出会い、金田一京助が死去するまで(昭和46年没)交流が続いた。 朝日新聞の記者だった本多勝一も、萱野茂を物心両面から支援した一人である。

このコーナーでは、アイヌ文化継承に力を注いでいる萱野茂の手によって世に出された、仕事の一端を紹介したい。

 
萱野 茂 『チセ・ア・カラ』

萱野 茂
『チセ・ア・カラ
 われら家をつくる』
未来社 1976

『チセ・ア・カラ われら家をつくる』  萱野茂 著/須藤功 写真/未来社/1976

1972(昭和47)年、苫小牧郊外の「TBS樽前ハイランド」に、萱野茂他15人ほどの人たちがアイヌの民家〝チセ〟(ci=set)を2棟建てた時の記録。
4月10日の地鎮祭から、4月15日の〝チセ・チョッチャ〟(新築祝い=屋根裏へヨモギの矢を射る)まで、アイヌの伝統的なやり方で建てられた。
ただし、チセコロカムイ(家の神)は秋の木で作られなければならないということで、それにともなう祭りは10月28日に行なわれた。
 《 須藤功によるあとがき 「『チセ・ア・カラ』撮影のあらまし」 による 》

この模様は、記録映画『チセ・ア・カラ ― われら家をつくる ―』(日本観光文化研究所/グループ現代)に残されたが、映画と同時にスチル写真が撮られ、萱野茂の文章(日本語とアイヌ語)を添えて出版された。
この本は現在入手困難なため、図書館から借りて読んだ。
著者・萱野茂のあとがき「アイヌ文化と私」によると、「アイヌの家の建て方を一つ一つ最初から手を取って」教えてくれたのは、貝沢前太郎と二谷善之助で、昭和20年代のこと。
執筆時点、彼は観光用、あるいは文化保存のために21軒のアイヌ・チセを建てた。 その20軒目と21軒目にあたる。
この時は、大小2棟の家と高床式の蔵、それに便所まで作っている。
チセの材料は、二風谷から運んだり近くの山林で得た、材木(えんじゅ、どすなら)、繩にする木の皮、〝ぶどうづる〟、屋根と壁に使う大量の萱、など。
道具は、スコップ、のこぎり、木槌、ノミ、ナタなどを使っているようだが(写真から判断)、巻尺などの計測器具は使っていないようで、目測、または木の枝を物差しとして使っている。

この本は、B5版、本文130ページほど、モノクロ写真が各ページの上半分(または全面)、ページ下半分のうち上段に日本語による説明、下段にアイヌ語による説明(カタカナ表記と日本語による逐語訳のルビ)という構成。
場所選びから始まる一工程ずつに細かい説明と写真が添えられ、アイヌの人々の伝統的な知恵と工夫がよくわかる。 また、節目節目に神々への祈りの儀式を欠かさないアイヌの伝統的な精神世界をうかがい知ることができる。
この時のチセは残念ながら取り壊されたというが、アイヌ文化の伝統を伝える貴重な一冊である。 民俗学者の宮本常一が序文をよせている。
映画 『チセ・ア・カラ -われらいえをつくる- 』(1974年)と、同じスタッフによって作られた映画 『アイヌの結婚式』(1971年)については、姫田忠義氏が所長をつとめる「民族文化映像研究所」のサイトに情報が掲載されている。

 → 民族文化映像研究所  http://www31.ocn.ne.jp/~minneiken/index.html

萱野 茂 『アイヌの民具』

萱野 茂
『アイヌの民具』
すずさわ書店 1978

『アイヌの民具』
   萱野茂 著/『アイヌの民具』刊行運動委員会 編/すずさわ書店/1978
アイヌの伝統的な生活用具、施設、それらの材料、食品についての詳細な解説を収めた〝百科事典〟ともいえる労作。 A4版、330ページ、布張り装丁の美しい本である。
豊富な写真、ていねいに描かれた図版、萱野茂による解説、巻末にはアイヌ語と日本語による索引、と至れり尽せりである。
巻末の、姫田忠義(『アイヌの民具』刊行運動委員会代表) 「この本ができるまで」 によると、刊行までの経緯は次のようだ。

1.萱野茂自身のアイヌ民具との長いかかわり
2.アイヌ民具についての本を書くように訴えた金田一京助や山田秀三との長いかかわり
3.それを具体化するため最初に協力の手をさしのべた本多勝一とのかかわり
4.「アイヌの民具」刊行委員会の発足(1977/6/23)
5.2500人の参加者(予約購読者)の協力
6.写真、図版、索引、編集、事務局、全スタッフの尽力
7.1978年7月15日 すずさわ書店から刊行

この本、ぼくは書店の店頭で見つけられず、市内の図書館でもたった一か所、これを置いている分室まで訪ねて行った。 手にした瞬間、これは手元に置いておきたい本だと、すぐにネット販売で申し込んだ。 ぼくが手に入れたのは、1998年1月10日の第6刷。
初版から20年以上ものあいだ、売れ続けているのはすごいことだ。
それだけの価値ある一冊である。

巻頭に、金田一京助から萱野茂にあてた「手紙」(昭和37年)が掲載されている。
すこし長くなるが引用する。

 茂君、君の仕事としては、わけのないことであって、それをすることは、君の名を不朽にすること、それは何であるか。
 これから、毎日、気をつけて、器物名をアイヌ語で、集めてごらんなさい。 ―(中略)―
 知里君がだんだんそこまで手をのばすのだったのでしょうが。
植物名動物名、人体名で終ったけれど、地名関係のものは、小さいながら書いたのがあるから、あれへ器物名を加えると、まず大体「物名」ができあがります。
 ぜひ、その仕事をやって下さい。
そしたら知里君の未完成にのこしたアイヌ語辞典を、みんなで完成することになるのです。 あのままやめてしまうのは、あんまり勿体ないから。
 いいですか、わかりましたね。

当時、萱野茂36歳、金田一京助(1882~1971)80歳。 この前年に弟子ともいえる知里真志保を亡くした、金田一博士の切ない気持が伝わってくるような手紙だ。
文中「知里君」とある知里真志保は、『アイヌ神謡集』を残して19歳で夭逝した知里幸恵の弟。 アイヌ出身のアイヌ語学者として偉大な仕事を残しながらも、52歳で世を去っている(1909/明治42~1961/昭和36)。
萱野 茂 『カムイユカラと昔話』

萱野 茂
『カムイユカと昔話』
小学館 1988

『カムイユカと昔話』  萱野茂 著/小学館/1988初版1刷/1991初版4刷
萱野茂が、1960(昭和35)年から28年間、二風谷を中心に歩き回って古老たちから収録した録音テープをもとに、日本語に翻訳した数々の伝承を集大成したもの。
昔話(ウウェペケレ) 37、カムイユカ 10、言伝え 1、メノコユカ 1、子守歌 2、計51作品。
本文536ページの労作である。
本文の他に、一話ごとの解説と、『アイヌの民具』から転載した図版を使ったアイヌ民具の紹介文がついている。

萱野茂がアイヌの伝承を録音するようになったきっかけは、「あとがき」によると ――

昭和20年1月、20年間私にアイヌ語で語りかけ、今にして思うと途方もなくでっかいアイヌ語という民族遺産を私に手渡した祖母てかってが亡くなった。
祖母の死とともにアイヌ語も私の身近から消えたかのようになり、アイヌ語がなんだ、文化がなんだ、学者たちがいう「滅び行く民族、それはアイヌ」・・・それらの言葉を私は甘受していた。

その後、父が「自分の命の次くらい大切にしていた」トゥキパスイ(お祈り用の捧酒箸)が学者によって持ち去られる、というできごとがきっかけで、アイヌ民具の収集に没頭する。
収集の成果が、平取町立二風谷アイヌ文化資料館に展示されている320種類、2000点のアイヌ民具である。

民具収集に力を注いでいた昭和30年代になると、昨日まで元気でいたおばあちゃんが今朝亡くなった・・・など、老人一人が世を去ると、一点の灯火が消えるようにアイヌ語が消えることに気づいた。
そこで私は昭和35年9月、テープレコーダーを購入し・・・

このように、当時まだ高価だったテープレコーダーを買い求め、精力的に古老を訪ね歩いて録音した昔話やカムイユカは、この本の執筆時には500時間にもなる。
それでも、「当初の計画の十分の一にも満たない」という。
この貴重な伝承を日本語に翻訳し、『キツネのチャランケ』、『ひとつぶのサッチポロ』など、いくつかの著作として出版してきたが、この本には、テープから新しく訳出したものばかりを収めている。 みごとな集大成である。

巻頭に、「アイヌと神々の世界」と題する総解説があり、たいへん勉強になる。
また、各作品の末尾に、その作品のテーマ、背景、アイヌの風習について、著者の「長い実生活の体験」にもとづき、わかりやすく解説されていて、学者の仕事とはひと味ちがう魅力がある。 言ってみれば、アイヌの生活者のまなざしを感じるのである。

一話一話に収録日、場所、話者が記載されているが、これは、昭和32年8月アイヌ語を録音するために平取町を訪れた知里真志保博士からの助言によるもの。
そのエピソードが、別の著作に書かれている。

・・・翌朝、宿での別れぎわに、先生はわたしの手を握って、
「このたびはいろいろお世話になりました。 おかげでいい録音ができました。 これからはどんなことでもいいから、アイヌのことに関して聞いたらその内容を書いておいてください。 尾籠なことだが、昔の人たちは大便のあと何でお尻を拭いていたかというようなこともです。 そしてその話は、いつ、どこで、誰から聞いたというふうにね」
と話してくださいました。  ( 『アイヌの碑』 朝日文庫 「知里真志保先生の教え」 P148 ~)

アイヌ民族は、親から子、祖父母から孫への口伝えで、この本に収録されているような豊かな物語世界を受け継いできたのである。
古老たちの語り口や表情まで目に浮かぶような、うれしい一冊。

この本の巻頭「アイヌと神々の世界」から引用しつつ、アイヌの物語世界を紹介したい。
(萱野茂 『カムイユカと昔話』 巻頭「アイヌと神々の世界」からの引用を中心に記述)

● ウウェペケレ (昔話)
話の中に、世の中の善悪や子どもたちへの道徳教育が織りこまれているものが多く、「だからそうしてはいけません」とか「そうしなさい」という教訓めいた言葉で締めくくられる。
「カラスと赤ん坊」という昔話(昭和36年9月30日採録/平取町去場・鍋沢さだ)の最後は

 と、いうわけで、私は子どもの時にカラスに盗まれて育ちましたが、それによって運が悪くもならず、このように何不自由なく、何を欲しいとも何を食べたいとも思わないほどの物持ちになりました。/けれども、今いるアイヌよ、子どもを山へ連れていっても、うかうか目を離すといろいろな化け物がいて、さらわれることがあるものだから、油断してはいけません、と一人のアイヌが語りながら世を去りました。  ―― となっている。

萱野茂によると、昔話はその内容から三つに分けられる。

(1) 神々と人間の昔話
人間だけの話や、人間が神様を相手にいろいろと話が展開する。
エロティックな内容や、人間に恋をする神様(カム)の話なども多く、興味深い。
この本に収録されている昔話37話のうち、34話がこれにあたる。

(2) 川下の者と川上の者の昔話
「パナンペアン(川下の者がいて)、ペナンペアン(川上の者がいて)・・・」という短い話。
たいてい、どちらかが善玉、もう一方が悪玉になる。
「フチたちにせがむとすぐに聞かせてくれたのが、これらの昔話」だったという。
この本には、「パナンペとペナンペ」「パナンペと小鳥」の2話を収録。

(3) 和人の昔話 (シサムウウェペケレ)
「シネポンウェンシサムアネヒーネ・・・(私は一人の貧乏な和人で・・・)」と話が進む。
前途に希望を持たせる出世話が多い。
現在の語り手は「アイヌ物でなければ本物でない気がしているらしく」あまり語らない。
この本には、「打ち出のこづち」という昔話が収録されている。
萱野茂が採取したものではなく、大正14年5月22日という日付のある、平取村平取尋常高等小学校発行の『睦』という同人誌らしい資料を発見し、そこから転載したという。

● ウパシクマ (言伝え)
年寄りが若者に聞かせる話。
コタンの歴史、本人の家系、お祈りの時の神々の名、その他の大事なことを教える。
雨降りの日など、ふらっと若者のいる家を訪れてゆっくりとした調子で若者に語りかける。
この本には、「国造りの神とフクロウ」を収録。 フクロウ神(コタンカカムイ=国造りの神)の由来が語られている。

● ユカ (叙事詩)
アイヌの韻文の分野は、大きく叙事詩と抒情詩に分かれる。
叙事詩の代表的なものがユカで、沙流川地方では次の種類がある。

(1) カムイユカ (神謡)
神の方からアイヌへ、だからこうしてほしいなどと注文が盛りこまれている場合と、単に神が神自身のことを語る場合がある。
〝サケヘ〟と呼ばれる繰り返しの言葉が入っているのが特徴。
「カッコウ鳥とポンオキクミ」(昭和44年4月15日採録/平取町荷負本村・黒川てしめ)では
   ハラカッコ / カッコッサポ  (カッコウ姉と)
   ハラカッコ / トゥトゥッ・サポ  (ヤマバト姉が)
   ハラカッコ / イ・レパ・キワ  (私を育て) ・・・
のように、「ハラカッコ」という〝サケヘ〟が、繰り返し各節の冒頭に挿入される。
〝サケヘ〟の言葉には意味のないものが多いが、全体の調子をリズミカルにする効果が感じられる。

(2) ユカ  (英雄叙事詩)
 「ユカ」というは言葉は、「イ(それを)・ユカ(模倣・再現)」、本来は真似るという意味。
単に真似るだけでなく、「私に聞かせてくれた人はあのように表現したが、私はそれより上手にしゃべることにしよう」と、工夫を重ね、人から人へと伝承されていった。
ユカは、レプという棒を手に持ち、軽く炉縁をたたきながら男性が語る。
ポンヤウンペという少年英雄が主人公になっているものが多い。
長いものは何夜もかけて語られる。
この本には収録されていないが、萱野茂の語りによるCD(『アイヌのユカラ―よみがえる英雄』 キング・レコード/WORLD MUSIC LIBRARY 51)で聴くことができる。

(3) メノコユカ  (女が語る叙事詩)
女性が語るものを「メノコユカ」と呼び、話の筋書きは同じでも語る調子が違う。
男性の語り口が、「イレスーサーポ、 イレシパーヒーネ ウラムマーカーネ オカヤーニーケ(私を育てる姉、私を育て いつものように 私はいたら)」であれば、女性が語るときは、「イレスサポ イレシパヒネ、 ラムマカネ オカヤニケ」と、早口になる。
これを「ルパイ」(さっと行く)という。

● イヨンノッカ (子守歌)
子守歌のことを、沙流川アイヌは「イヨンノッカ」といい、旭川アイヌは「イフンケ」という。
「イフンケ」という言葉は、沙流川では「人を呪う」という意味になるのが興味深い。
静内アイヌは、子守歌を「イヨンルイカ」という。 アイヌ語にも方言があるという好例。
イヨンノッカには決まった歌詞が少なく、泣く子を「イエオマ」という「おぶい紐」で背負い、あるいは「シンタ」という揺すり台に乗せて、思いのままに詞を作って歌う。
歌詞の内容のほとんどは、「泣くと恐ろしい鳥が来るぞ」とか、「泣かずに眠るとえらい人になれる」などと、脅し半分、おだて半分のもの。

萱野 茂 『萱野茂のアイヌ語辞典』[増補版]

萱野 茂
『萱野茂のアイヌ語辞典』
 [増補版]
三省堂 2002

『萱野茂のアイヌ語辞典』 [増補版]  萱野茂 著/三省堂/1996初版/2002増補版
萱野茂が70歳のとき(1996年)に完成したアイヌ語辞典。
見出し項目約6000。 その後、2002年に約600語を追加した増補版を出版。
本文520ページ、日本語索引110ページという膨大な内容。 まさに〝ライフワーク〟と呼ぶにふさわしい労作である。
「萱野茂の」 と銘打っているのには理由がある。 「初版のためのはしがき」によると ――

山育ちの私は、海の魚の名前をあまり知らない。 したがって、この本を作るにあたって、長万部アイヌに拠る魚の名を参考にした以外は参考文献はまったくない。 文字どおり『萱野茂のアイヌ語辞典』であり、少年時代に母語としていた言葉を網羅したものがこの本である。
したがって、この本は言語学者による辞典ではない。 少年時代の生活語、すなわち「母語として使っていたアイヌがつくったアイヌ語辞典」であって、・・・(後略)

アイヌ語のまとまった辞典として、古くはジョン・バチラー (*) による『アイヌ・英・和辭典』、知里真志保による『分類アイヌ語辞典』(植物編、動物編、人間編の3巻)と『アイヌ語地名小辞典』があり、近年では、『アイヌ語千歳方言辞典』(中川裕/1995/草風館)、『アイヌ語沙流方言辞典』(田村すず子/1996/草風館)などがある。
しかし、これらはいずれも萱野茂がいうところの〝言語学者〟か、それに近い仕事をしていた人たちの手によるものである(バチラーは言語学者でなく、明治期にアイヌの間で布教活動をした宣教師)。

これらの辞典とちがって、この『萱野茂のアイヌ語辞典』は著者自身が書いているように(「増補版のためのあとがき」)、「アイヌ自身が己が民族の言語を手元へ引き戻す」 のに大きな役割を果たすものだと言える。
もちろん、ぼくにとっても 『アイヌの民具』 とともにこの先、座右に置きたい本である。

* ジョン・バチラー John Batchelor (1854~1944) 英国人宣教師
一般に〝バチェラー〟と表記されることも多いが、彼の著作には〝バチラー〟と記されているため、ここではそれに従った。

萱野 茂 『五つの心臓を持った神』

萱野 茂
『五つの心臓を持った神
 アイヌの神作りと送り』
小峰書店 2003

『五つの心臓を持った神 アイヌの神作りと送り』  萱野茂 著/小峰書店/2003

2001年、総合研究大学院大学から博士(学術)号を贈られた論文を本にしたもの。

 → 総合研究大学院大学  http://www.soken.ac.jp/


本のサブタイトルにあるように、アイヌ民族の伝統的な「人の送り」「器物送り」「諸々の動物の送り」についてアイヌ語の「送りの言葉」を示しながら論述したものである。
「論文」といっても学者臭の全くない読み物であるが、構成がしっかりしていてすばらしい。
参考として目次を紹介する。

第一章 人間の送り
 一、 アイヌの死
 二、 アイヌの葬送 ―アイヌ民族の死生観―
 三、 人の送りの祈り言葉
第二章 動物の送り
 一、 イヨマンテ=クマ送り
 二、 イヨマンテの精神
 三、 沙流川のイヨマンテの記録
 四、 そのほかの動物の送り
 五、 「送り」の意味
 六、 クマ送りの祈り言葉
第三章 器物の送り
 一、 送られる道具
 二、 器の送りの儀式
 三、 ウウェペケ=昔話の教訓
 四、 器物の神への祈り
第四章 身近な神々の送り
 一、 身近な神々
 二、 チセコカムイ=家を守ってくれる神
 三、 ノイヤモカムイ(五つの心臓を持った強い神)
 四、 アユニカムイ(とげのある神)
 五、 姿神 (すがたがみ)
終章 自然を神と崇めて
 一、 祈詞 (のりと) と昔話
 二、 サケとアイヌ

「あとがき」にある「アイヌとして生き、自分を育ててくれたアイヌ文化の内面を理解していくほどに、その奥深さに心をときめかせ、そのまた奥に分け入ろうと努力してきた」成果は、みごとと言う他ない。
このように、アイヌの精神世界の伝統(著者の言葉によれば、アイヌの「心」)を書物にまとめてくれた努力と研鑚に拍手を贈り、感謝したい。
萱野 茂 『アイヌ・暮らしの民具』

萱野 茂
『アイヌ・暮らしの民具』
クレオ 2005

『アイヌ・暮らしの民具』
   萱野茂・文/清水武男・写真/クレオ/2005  (A5版/160ページ)
2005年7月に出版された、萱野茂の最新刊。
「天の国から、役目なしに降ろされた物はひとつも無い」 ―― 〝オキクミカムイ〟から教わったとされるアイヌの生活文化。
その文化の中で伝えられてきた美しい民具の数々と、背景にあるアイヌの人々の暮らし、考え方を紹介する写文集。

『アイヌの民具』(1978)に続く2冊目の民具関係の著作だが、博物館の中で死んだまま〝展示〟されている古民具ではなく、萱野夫妻の手作りによる、生命感あふるれる民具が中心である。

コンパクトな本ではあるが、萱野茂の長年にわたる仕事の集大成と言える一冊。
目を見張るばかりのカラー写真と、萱野茂の文章の組み合わせがいい。
1800円(税別)という手頃な価格。 多くの人に読んでもらいたい本だ。

遥か遠い昔のこと、
二風谷を流れる沙流川の畔に
ひとりの神が降臨し、
道具の作り方や、
その道具を使っての漁や狩り、
さらには耕作の仕方などという、
アイヌに生活や文化を教えてくれました。

オキクミカムイ ・・・・・・
北の大地で生まれた暮らしの民具は、
このひとりの神から授けられ、
伝えられてきた、
アイヌ民族の生きた証なのです。   《 『アイヌ・暮らしの民具』 帯・カバーの文 》

本文の構成。

序章 「イコロ・オ・プ ikor-o-pu との出会い」    (注) イコロ・オ・プ : 宝物を入れる蔵
第一章 「衣」 aynu a=mi-p
第二章 「食」 aynu ipe
第三章 「住」 aynu kotan
第四章 「祈」 aynu kamuy-nomi  「遊」 aynu sinot
終章 「ウウェペケレ u-e-peker kewtum 昔話の世界」 aynu itak-ipe

 
 
 
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