資料蔵

アイヌ資料 1

 

<< 初回掲載日 2005/3/27 / 最終更新日 2005/5/8 >>

 
    アイヌ資料 目次へ  
    アイヌが生きる河 (北川大) アイヌ わが人生 (貝澤正) アイヌの碑 (萱野茂)  
    二つの風の谷 (本田優子)  
 

● 「二風谷」 の地を巡って

北海道沙流郡平取町字二風谷(さるぐん・びらとりちょう・あざ・にぶたに)。
日高地方西部、平取市街から沙流川沿いに約4キロ遡った所。
アイヌの文化が伝承されている土地である。
松浦武四郎(1818~1888、江戸末期の探検家)の時代から「ニプタニ」と呼ばれていたが語義がはっきりしないという。

松浦氏左留日誌は「其名義、昔し此処に細工の上手の土人有りて、木太刀を作って、其柄に金物を三ツ附て奉りしかと云。
其事にて号るとかや」と書いた。 つまりニプ・タ・イ(nip-ta-i 柄を・作った・処)とでも読まれたのであろうか。
 ( 『北海道の地名 ―アイヌ語地名の研究 別巻』 山田秀三/草風館/2000年 P.364 )

 → 平取町  http://www.hidaka.pref.hokkaido.jp/kanko/biratori/
 → 平取町ホームページ  http://www2.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/cgi-bin/index.cgi

 
北川 大 『アイヌが生きる河』

北川 大
『アイヌが生きる河』
樹花社 2003


〝今〟を生きるアイヌの人たちの中へ、逃げることなく踏みこみ溶けこんだ著者の誠実な姿勢に頭が下がる。

北川 大 (きたがわ・だい)
1963年 東京生まれ。中央大学法学部政治学科卒業。
ドキュメンタリー写真家。 1989年から北海道・二風谷の人々の暮らしを撮り始める。
現在、東京都内の大学や市民講座等で映像教育に携わる。
著者・北川大は大学卒業後、写真家を志望し、ダム建設問題を取材しようと1989年に二風谷を訪れた。
貝澤輝一が経営する民宿「二風谷荘」に滞在、貝澤輝一や、民芸店の高野繁廣らと親しくなり、ダムによって水没する前の沙流川右岸(西岸)を案内してもらう。 そこは「川向い」と呼ばれ、昔から二風谷の人々が苦労して開墾した思い入れの深い場所だった。
その後も何度か東京とのあいだを往復しながら取材を続け、ある時、貝澤輝一に誘われてサハリン(樺太)に残留したアイヌの消息を訪ねる交流団に参加。 この時、北海道では見られなくなった鮭が川を遡上するサハリンの風景の中で、貝澤輝一から、豊かだった昔の沙流川の話を聞いて感動する。
この他にも、青木愛子という老人(最後の〝アイヌの産婆〟イコインカラクルと呼ばれた人)に惹かれ、彼女の写真を撮らせてもらった逸話や、貝澤正の生涯を追う中で出会う白沢ナベ(カムイユカラの語り手)や中本ムツ子との交流、さらに、計良(けいら)智子らとの出会いも感動的だ。

この本のなかで、著者が大きな関心を寄せているのは、ダム建設に最後まで反対して「川向い」の土地の強制収用を拒否していた貝澤正。 貝澤正(1912~1992)は、この3年後、病気のために逝去したが、死の直前、北川大は一週間にわたってその半生を聞き取り、記録している。
この貴重なインタビューの内容は、貝澤正の遺稿集 『アイヌ わが人生』(岩波書店・1993)に収録されている。

北川大は、小学校に上がる直前、父親の転勤で北海道に移住。 入学した小学校の同じクラスにアイヌの少年〝K〟がいた。 彼はその〝K〟と親しくなったが、ある時から級友たちといっしょになって〝K〟を差別する側にまわってしまう。
この本の中で繰り返し〝K〟に思いを馳せ、「アイヌ」とは何か、「日本人」とは何かという問いを自らに突きつける。

昨晩のことが苦々しく蘇ってきた。泊まっている二風谷荘の裏庭で、幾人かの地元の人と並んで酒を飲んでいたときのことだ。その席で、かなり酔いがまわった青年が憤然としてぼくを睨み、「昔じゃあるまいし、アイヌなんて呼ばれたくはない、みんな日本人だろう」と迫ってきた。ぼくがある話題でアイヌという言葉を使ったのが気に障ったようだ。その場をとりつくろうように謝ったものの、どうも引っかかったままだった。ぼくの中ではKがアイヌなのだ。アイヌは必ずいる。 ―(中略)― ぼくはアイヌの権利問題に絡んだダム建設の是非を問う取材に来ている。「みんな日本人」という言葉で括ってしまったら、問題そのものが存在しないのも同じだ・・・・・・。  ( 『アイヌが生きる河』 樹花社/2003年 P.42~43 )

新書サイズ、300ページ足らずの小型本だが、重みのある一冊である。
貝澤 正 『アイヌ わが人生』

貝澤 正
『アイヌ わが人生』
岩波書店 1993


二風谷に生まれ、二風谷に育ち、二風谷の自然を愛しながら病に倒れた貝澤正が残した遺稿集。
多くの人々から慕われた彼の人柄がしのばれる貴重な一冊。

貝澤 正 (かいざわ・ただし)
1912(大正元)年 北海道沙流郡平取村(現平取町)生まれ。
1992年 逝去。 遺言により葬儀は伝統的なアイヌプリ(アイヌ式)でおこなわれた。

二風谷尋常小学校、平取尋常高等小学校高等科卒業。
1941年、開拓団員として旧満州へ渡る。 '67年、平取町議会議員、'71年、二風谷アイヌ文化資料館落成、初代館長となる。
'72年、北海道ウタリ協会副理事長に就任。 '74年、第一次アイヌ訪中団団長として中国訪問。 以後、アラスカ、北欧、サハリン、ソ連等をおとずれ、先住民と交流。
'87年、二風谷アイヌ語教室が開設され、運営委員長。
'88年、編集委員長をつとめる『アイヌ史』刊行開始。
'91年、二風谷ダム建設のための国による土地の強制収用に反対し、建設省で意見陳述。
三井物産株式会社社長宛にアイヌへの山林の返還を訴える書状を送る。
    《 『アイヌ わが人生』 岩波書店/2000年・第5刷 著者略歴を引用 》
貝澤正については、上述の『アイヌが生きる河』(北川大)にも詳しく書かれている。

二風谷で「会長」と呼ばれている人物を人々が語るとき、ぼくは巨人の輪郭を思い描いた。 貝澤正。 長男の耕一に家業を譲るまでは、全道で知られるほどの篤農家であったという。 ―(中略)― 貝澤正に世話になった人は一方ならぬ敬意と感謝の念を持っている。その反面、ウタリの土地を次々と買い求め零細農家から二風谷有数の農場主になったと、彼の手法が非難されないではなかった。
 ( 『アイヌが生きる河』 樹花社/2003年 P.134 )

北川大は、この貝澤正の「手法」について、脚注で次のように書き添えている。
「ウタリ(同胞)の土地が和人の手に渡るのを防ごうとして買い求めていたというのが実際のようだ。」 (上述書 P.135)

『アイヌ わが人生』に収められた文章には、若い頃の暮らしの苦労が綴られている。 九人兄弟の長男として家計を支えて行かなければならず、山へ行って働いて得た80銭の日当から50銭を食費に取られ、味噌をなめながら残りの30銭を弟への仕送りにあてたという。 彼の弟は、アイヌ子弟への奨学金制度を受けて、バチェラー学園寄宿舎から札幌商業学校へ通っていたのである。
明治以後、日本政府は北海道で「アイヌの伝統を捨てる日本人化教育」を徹底した。

わたしの父親は日本人になることを真剣に願っていましたから、アイヌの習慣をあまりおこないませんでした。
たとえば、アイヌには焼酎を飲むときにもかならずカムイノミをし、神様といっしょに飲むという習慣があったのですが、わたしの父親はそうしたことをしませんでした。
わたしは父親から徹底的に日本人化教育を受けました。ですから、アイヌ語はこの年齢になっても、単語が少しわかるくらいです。
 ( 『アイヌ わが人生』 岩波書店/2000年・第5刷 P.84 )

そんな彼は、1941年満州に渡る。 「五族協和」というスローガン(満州では日本人も中国人も差別しない)を信じて渡ったそこで、中国人、朝鮮人に対する差別をまのあたりにして失望する。 その逸話 ――
ある時、団員の妻(彼女は朝鮮人だった)が早産児を生み、その遺体を団の墓地予定地に埋葬したのが悪いと「朝鮮人の子供を我々が眠るべきところに」と言った者がいた。
彼は持ち前の正義感からこれを非難したところ、アイヌのくせに生意気だと歩兵銃をつきつけられ殺されそうになる。 開拓団を出て満州で農業を始めたが病気になって帰国。

「満蒙開拓団」のことは、戦後さまざまに語り伝えられてきたが、このようにアイヌの視点から語られたものは少なかったのではないだろうか。
ぼくらの知らなかったことは多く、考えさせられる。

貝澤正は、萱野茂とともに二風谷ダムの建設に最後まで反対した人だが、それ以外にも、沙流川と並行して流れる鵡川の上流、奥トマムの大規模開発(ゴルフ場とスキー場開発)による森林破壊・河川汚染にも反対する活動をしていた。
この本の最後に何人かの人たちが追悼文を寄せているが、その中に本多勝一の文章(告別式での弔辞)があり、胸をうつ。

貝澤正さん、・・・というより、いつもあなたが自称していたように「北海道アイヌ」の正エカシ、と呼びかけたいと思います。
―(中略)― ダムが完成したら自分も水没して湖底の人柱となる決意を表明し、民族の聖地破壊を阻止できなかった責任をとって先祖にわびると予告しました。

萱野 茂 『アイヌの碑』

萱野 茂
『アイヌの碑(いしぶみ)』
朝日文庫 1990
(朝日新聞社/1980)


二風谷に生まれ、二風谷に育ち、アイヌ文化の継承・再生に力を注いできた萱野茂の自伝的な一冊。
1980年の著作。
その後1990年に文庫化。

萱野 茂 (かやの・しげる)
1926(大正15)年 北海道沙流郡平取町二風谷生まれ。
小学校を卒業と同時に出稼ぎに出て、造林や測量人夫、炭焼き、木彫りなど幾度も職を変えながら、家族の生計を助ける。
アイヌの民具、民話の収集、記録に力を注ぎ、昭和47('72)年 収集した約2,000点の民具で「二風谷アイヌ文化資料館」を開設。
その間、金田一京助、知里真志保と知り合い、金田一京助のユカラ研究を手伝う。
'75(昭和50)年 アイヌ語の散文詩「ウェペケレ集大成」で菊池寛賞、'78(昭和53)年 北海道文化奨励賞、'89(平成元) 吉川英治文化賞を受賞。
'94年から'98年まで参議院議員。
現在、「萱野茂 ニ風谷アイヌ資料館」館長。
著書は、『ウェペケレ集大成』『おれの二風谷』『炎の馬』『ひとつぶのサッチポロ』『アイヌの民具』『萱野茂のアイヌ語辞典』など多数。
    《 『アイヌの里 二風谷に生きて』 北海道新聞社/1992年・第4刷 著者略歴他を参照した 》
上述の貝澤正さん同様、萱野茂さんについても、敬称を省くことに抵抗がある。
著作でしから知らない人だが、ぼくは密かに敬意を抱いているからである。
その名は以前からよく耳にし、10年ほど前に参議院議員になったことも知っていたが、彼の著書を読み始めたのは最近のことだ。

北川大の表現を借りると、萱野茂は「希有な境遇によって伝統文化を継承した」人である。
「希有な境遇」とは、子どもの頃からアイヌ風の家(萱の段葺きの屋根に板囲い)に住み、囲炉裏端で〝てかって〟という名の祖母(嘉永3年=1850年生まれ)が語るウェペケレ(アイヌの昔話)やカムイユカラを聞き、祖母とはアイヌ語で会話していた、という生い立ちを指す。 『アイヌの碑』には、そういう子どもの頃の思い出も語られている。

家の中には幅三尺(約90センチ)、長さ六尺(約180センチ)ほどのいろりがあって、横座の隅には直径10センチの皮つきのえんじゅの木が埋めこんでありました。それは彫り物をするときの削り台で、横座に座った父はその削り台で、いろいろな生活用具を作っていました。 ―(中略)― いろりの上には火棚が吊り下げられてありました。 ―(中略)―
この火棚は、六、七歳の子供の頭がぶつかるぐらいの高さにありましたので、そのころわたしも急に立ち上がって、ごつんとやることがときどきありました。すると祖母や両親が笑いながら、「背が高くなってよかった。痛いのは火棚も同じだ。ぶつかった所へ息を吹きかけて痛いのをなおしてあげなさい」などと言うのです。
( 『アイヌの碑』 朝日文庫/1997年・第7刷 P.10~11 )

彼が子どもの頃、沙流川にはまだ鮭がのぼってきていて、毎日食べても余るぐらいの鮭を獲ることはできたという。
父の貝沢清太郎(萱野茂は貝沢姓だったが萱野家に養子にいったので苗字がちがう)は、鮭獲りが好きだった。といっても、アイヌの人たちは食べるだけのぶんしか獲らなかったのだ。 ところが、彼が小学校に入る前のある日、長いぴかぴかの刀(サーベル)を下げた巡査がやってきて、父を連れ去った。 鮭の〝密漁〟のかどで逮捕されたのである。

毎夜毎夜獲ってきて、わたしたち兄弟や近所のお婆さんたちに、さらに神々にも食べさせていた鮭はそのころ獲ってはいけない魚でした。 ( P.74 「罪人にされた父」 )

後年、二風谷ダム建設の際、土地の強制買収に異議申し立てをした彼は、この本の文庫版あとがき(1990年10月)にこう書いている。

私が出した条件はたった一つ、「有史以前からアイヌが持っていた鮭を獲る権利をアイヌに返還してくれ」という、ささやかな願いです。
罪人にされた父のことを思うと執念を燃やさずにいられないのが、鮭の問題です。 世界中、それぞれの国の先住民族の権利が足早に回復されつつある中で、日本政府は小回りが利かないのか、利かない振りをしているのか、アイヌ民族の要求に耳を貸そうとしてくれません。

ぼくらの住むこの〝日本〟は、なんと非道な国だろう。
本田 優子 『二つの風の谷』

本田 優子
『二つの風の谷』
アイヌコタンでの日々
筑摩書房 1997
(ちくまプリマーブックス)


1983年に二風谷を訪れ、萱野茂氏が開設したアイヌ語教室の講師として14年間アイヌコタンで生活した経験を綴る。
著者は萱野氏から絶大な信頼を得て『萱野茂のアイヌ語辞典』の編纂も手伝っている。

本田(=米田) 優子 (ほんだ・ゆうこ)
1957年 金沢市生まれ。北海道大学文学部卒業。
1983年より萱野茂氏の助手としてアイヌ語辞典編纂に関わる。
論考に「アイヌ農耕史研究にみられる伝承資料利用の問題点」(1995)など。
    《 『二つの風の谷』 筑摩書房/2001年・第2刷 著者略歴を転載 》
著者の本田優子については、北川大の『アイヌが生きる河』に紹介されていたので知っていた。 ダム建設をめぐって二風谷がマスコミの注目を集めていた時期である。
彼女のアイヌ語教室にもテレビ局が来て「報道」の大義名分を笠に着た強引な取材をしていた。 ひとりの少女をめぐるテレビ局の傲慢な姿勢に、彼女は憤る。

取材が開始されると同時に、予想通りさまざまな問題が生じたが、なかでも問題が噴出したのは、彼女たちの中学校でのようすを映像に収めたいとの要求が出された時だった。 メンバーのほんとんどは徹底して拒否したが、ディレクターは執拗だった。 ―(中略)―
「テレビ、嫌なの。 でもどうしてもちゃんと話せないの」
それまで、なんとか彼女自身が自分の意思をテレビ局側に示すようにと考えてきた私だったが、か細く途切れ途切れに話しながら嗚咽する声を聞き、ついに切れた。私はディレクターに電話し、ものすごい剣幕で怒った。 ―(中略)― するとそのディレクターも負けじと言い返して来た。
「どうしてみんな表に出ることを恐がるのか。もっと誇りを持ってアイヌだと主張すべきだ。
かばいすぎることは彼女たちのためにならない」
怒りと悔しさで涙があふれた。子どもたちが問題にしているのは、そんなことではないということがなぜわからないのだろう。
 ( 『二つの風の谷』 筑摩書房/2001年/第2刷 P.104~105 )

このディレクターは、自分の〝正義感〟に酔っているだけで、何も見えていないのである。 このように傲慢とも言える姿勢は、二風谷を訪れる観光客や研究者にも染みついている。
彼女が萱野家の居候となってすぐに手伝ったのは、平取町立二風谷アイヌ文化資料館の「切符売りのおねえさん」だった。 その時の経験をこう語る(引用だと長くなるので要約)。

資料館を訪れる客には二つのタイプがある。 ひとつは、アイヌについてほとんど知識を持っていない人びと。 「おねえさん、アイヌ部落ってどこにあるの?」 という〝素朴な〟質問をするオジサン。 これはまだいい。
もうひとつのタイプは、そんな馬鹿な質問をしない。 彼らは、アイヌに関する本や資料を読み、近代の同化政策についての知識を持つ「よくわかったシャモ」。 けれど、そういう人たちの目は、受付に座っている彼女を「この子はアイヌだろうか、シャモだろうか」という視線で見ている。 彼女の出身地をたずね、アイヌでないと判断すると失望の色を見せる。

著者・本田優子は、アイヌでもなく〝シャモ〟でもない視点から二風谷を取り巻く問題を指摘している。 二風谷の人々(もちろんアイヌばかりではない)の中にしっかり溶けこんで、アイヌ語教室や、萱野茂のアイヌ語辞典の編纂を手助けするなど、立派な仕事をしていると思えるのに、「これでよかったのだろうか」と反省する。

二風谷の子どもたちが文化を受け継ぐために必要なのは、私が教えるアイヌ語を頭にたたきこむことでもなければ、かつてのアイヌ社会の美しさを語れるようになることでもない。(略) アイヌの近現代をくぐりぬけてこの地に伝え継がれたものがなにかを探り、そこに立脚することによってのみ、彼らは「受け継ぐ者」となりうるだろう。  (P.196)

なんと誠実な人だろう、と頭のさがる思いをした。
こう書くと、重たい内容の本だと思われるかもしれないが、アイヌのおばあちゃん(フチ)たちや、少女たちとの交流のエピソードがたくさん綴られていて、ほっとする。
じつにいい本である。

《注記》 〝シャモ〟という言葉を、彼女はこの本の中であえて使っている。
誤解のないように、彼女自身が書いている注釈(P.8)を、長くなるが下に引用する。
―― シャモ(和人)・・・ 日本列島に住む圧倒的多数民族をさし、和人あるいはアイヌ語でシサと表現される場合が多い。シャモということばは、シサから転訛した蔑称なので用いない方がよいとの意見もあるが、現在のアイヌの日常生活のなかではごく普通に使われており、発話者の侮蔑的意図が感じられない場合も多い。そのため、本書の論旨および登場人物による会話文との統一性も考え、あえてシャモという語を用いた。 ――

 
 
 
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