本田(=米田) 優子 (ほんだ・ゆうこ)
1957年 金沢市生まれ。北海道大学文学部卒業。
1983年より萱野茂氏の助手としてアイヌ語辞典編纂に関わる。
論考に「アイヌ農耕史研究にみられる伝承資料利用の問題点」(1995)など。
《 『二つの風の谷』 筑摩書房/2001年・第2刷 著者略歴を転載 》
著者の本田優子については、北川大の『アイヌが生きる河』に紹介されていたので知っていた。 ダム建設をめぐって二風谷がマスコミの注目を集めていた時期である。
彼女のアイヌ語教室にもテレビ局が来て「報道」の大義名分を笠に着た強引な取材をしていた。 ひとりの少女をめぐるテレビ局の傲慢な姿勢に、彼女は憤る。
取材が開始されると同時に、予想通りさまざまな問題が生じたが、なかでも問題が噴出したのは、彼女たちの中学校でのようすを映像に収めたいとの要求が出された時だった。 メンバーのほんとんどは徹底して拒否したが、ディレクターは執拗だった。 ―(中略)―
「テレビ、嫌なの。 でもどうしてもちゃんと話せないの」
それまで、なんとか彼女自身が自分の意思をテレビ局側に示すようにと考えてきた私だったが、か細く途切れ途切れに話しながら嗚咽する声を聞き、ついに切れた。私はディレクターに電話し、ものすごい剣幕で怒った。 ―(中略)― するとそのディレクターも負けじと言い返して来た。
「どうしてみんな表に出ることを恐がるのか。もっと誇りを持ってアイヌだと主張すべきだ。
かばいすぎることは彼女たちのためにならない」
怒りと悔しさで涙があふれた。子どもたちが問題にしているのは、そんなことではないということがなぜわからないのだろう。
( 『二つの風の谷』 筑摩書房/2001年/第2刷 P.104~105 )
このディレクターは、自分の〝正義感〟に酔っているだけで、何も見えていないのである。 このように傲慢とも言える姿勢は、二風谷を訪れる観光客や研究者にも染みついている。
彼女が萱野家の居候となってすぐに手伝ったのは、平取町立二風谷アイヌ文化資料館の「切符売りのおねえさん」だった。 その時の経験をこう語る(引用だと長くなるので要約)。
資料館を訪れる客には二つのタイプがある。 ひとつは、アイヌについてほとんど知識を持っていない人びと。 「おねえさん、アイヌ部落ってどこにあるの?」 という〝素朴な〟質問をするオジサン。 これはまだいい。
もうひとつのタイプは、そんな馬鹿な質問をしない。 彼らは、アイヌに関する本や資料を読み、近代の同化政策についての知識を持つ「よくわかったシャモ」。 けれど、そういう人たちの目は、受付に座っている彼女を「この子はアイヌだろうか、シャモだろうか」という視線で見ている。 彼女の出身地をたずね、アイヌでないと判断すると失望の色を見せる。
著者・本田優子は、アイヌでもなく〝シャモ〟でもない視点から二風谷を取り巻く問題を指摘している。 二風谷の人々(もちろんアイヌばかりではない)の中にしっかり溶けこんで、アイヌ語教室や、萱野茂のアイヌ語辞典の編纂を手助けするなど、立派な仕事をしていると思えるのに、「これでよかったのだろうか」と反省する。
二風谷の子どもたちが文化を受け継ぐために必要なのは、私が教えるアイヌ語を頭にたたきこむことでもなければ、かつてのアイヌ社会の美しさを語れるようになることでもない。(略) アイヌの近現代をくぐりぬけてこの地に伝え継がれたものがなにかを探り、そこに立脚することによってのみ、彼らは「受け継ぐ者」となりうるだろう。 (P.196)
なんと誠実な人だろう、と頭のさがる思いをした。
こう書くと、重たい内容の本だと思われるかもしれないが、アイヌのおばあちゃん(フチ)たちや、少女たちとの交流のエピソードがたくさん綴られていて、ほっとする。
じつにいい本である。
《注記》 〝シャモ〟という言葉を、彼女はこの本の中であえて使っている。
誤解のないように、彼女自身が書いている注釈(P.8)を、長くなるが下に引用する。
―― シャモ(和人)・・・ 日本列島に住む圧倒的多数民族をさし、和人あるいはアイヌ語でシサムと表現される場合が多い。シャモということばは、シサムから転訛した蔑称なので用いない方がよいとの意見もあるが、現在のアイヌの日常生活のなかではごく普通に使われており、発話者の侮蔑的意図が感じられない場合も多い。そのため、本書の論旨および登場人物による会話文との統一性も考え、あえてシャモという語を用いた。 ――
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